1995年6号

第20回地球環境問題懇談会から ―「環境の世紀への提案-環境問題からみた企業のあり方」―

 平成7年3月31日、日本自転車会館3号館において標記懇談会を開催した。その中で、日本経済新聞論説副主幹・三橋規宏氏に、「環境の世紀への提案-環境問題からみた企業のあり方」という表題で、講演をしていただいたので内容を紹介する。

1.日本経済新聞がなぜ社説として環境問題を取り上げたか。

 今年は戦後50年ということで一つの節目の年に当ります。昨年の秋頃から、節目の年の社説をどういうもので書いていくか社内で議論してきました。私達は、議論を重ねる中で、他の大手新聞社は戦後50年という節目を重視して、これからの50年あるいは100年の日本がどうあるべきかといった、総論的な話を書いてくるだろうと考えました。今年の元旦の各社の社説を見ると我々が予想したように、今後の日本のあるべき論、あるいは日本人はどう変わるべきかといった話が中心だったと思います。

 他紙の方針に対して私たちは、これから50年、100年を考えた時、ニュース価値としてますます大きくなるものは何か、という視点を重視しました。議論の中では、新しい日米関係の構築といったもの、アジアの中の日本という視点、高齢化社会への対応をどうするかなど色々な意見がありました。それぞれが、日本という座標から見ると、非常に重要な問題であると考えられます。しかし、世界共通 の課題として、今後、月を追い年を追うごとに重要になってくる課題という観点で考えますと、やはり「環境問題」しかないとの結論に至ったわけです。戦後50年の節目として環境問題を取り上げるならば、単発でやっても意味が無い、それでは、これまでなかったような形で環境問題のキャンペーンをやってみようということになりました。そして今回は、できれば30回程度社説で環境問題を扱いたい、そうすれば、当新聞が環境問題に対してどのような考え方で21世紀を展望しているのか、かなりインパクトがあるメッセージを送れるのではないかと考えたわけです。

 20世紀は人類の歴史からみると、最も経済発展を遂げた1世紀でした。特に近代科学技術をいたるところに駆使して、また、大量 生産、大量消費といった経済システムを活用して、物的な豊かさを追及した世紀でした。その結果 、物的豊かさは満たされましたけれど、その代償も大きかったわけです。この点から、まず20世紀は一方で環境破壊の世紀だったと認識し、そして21世紀は、破壊された環境を修復する世紀にしなくてはいけないという思いを込めて、社説の表題を「環境の世紀への提案」とさせてもらいました。環境の世紀というのは、破壊された地球環境を修復するという意味で考えています。

 今までの環境問題の筆者は、科学技術をカバーしてきた論説委員、あるいはエネルギー問題をカバーしてきた論説委員などで、論説委員会の構成メンバーからすると、三十何人のうちの2人か3人でした。しかし、今度の連載の企画を始めるに当たっては、できるだけ多くの論説委員に参加してもらい、環境の世紀というキャンペーンを論説委員会全体として進めて行こうと決めました。その中で非常に強く感じたことは、今や環境問題は一部の専門家の人達だけのテーマではなく、さまざまな人達にとって身近な問題になりつつあるということです。

 私は昨年1年間、中央環境審議会の委員として、環境基本計画の作成に携わってきました。その中で一つ非常に気になった事は、産業界を代表する人達の話がどうも環境問題に対して及び腰であることです。環境対策の必要性には理解を示すのですが、それが経済的手段の導入問題などになると、あまり具体的に書いてもらいたくないという感じがあるわけです。しかし、私は、環境問題がこれから避けては通 れない問題であるならば、1日延ばしで対策を先送りするような姿勢は、日本の企業にとってマイナスではないかと思います。企業が発展する場合は、不況という逆風の中でリストラに続くリストラを重ねて、自らが生き残るためのイノベーションを間違いなくやってきました。ぬ るま湯の中にいるとき、あるいは景気がいいときにイノベーションは起こりません。当面 企業にとって環境問題はコスト高につながるかもしれませんが、企業が21世紀に生き続けていくためには、その環境に果 敢に挑戦していくという姿勢が必要だと考えます。

 これまで日本経済新聞は、企業と一体になって発展してきました。それがここに来て、環境問題を真正面 から取り上げて、社論として企業に厳しい論調を掲げているわけです。しかし、これは企業にとっても長い目でみればプラスになると考えるからです。現在の世界の潮流からしても、環境問題を放置することは企業にとってマイナスであろうとの考えのもとで進めているのです。事実、この連載を初めた当初は、企業の皆さんから戸惑いの声が寄せられました。しかし、現在では、私どもの企画を積極的に評価する意見が企業の皆さんから寄せられており、私たちもこの問題を取り上げて良かったという印象を持っています。

2.グッズ減税・バッズ課税

 次に、今回の一連の社説の中で、私たちがぜひ訴えたいポイントについて説明したいと思います。私たちはグッズ減税、バッズ課税という考えを社説の中で提案しました。これは基本的に、好ましい行為に対する課税はできるだけ避け、世の中のために、あるいは地球環境のためにマイナスになるような部分に課税をするという考えです。

 企業でも個人でも税金を払っています。それは公共的な部分に使われ、税金を払うことによって、公共財の充実を図ってきたわけです。しかし、税率が高くなるにつれて、理屈では分かっていても税金をどんどん取られることに、何か釈然としないものを感じるわけです。したがって、ここでは好ましくない部分に課税して、働いて得た所得あるいは適正な企業活動として得られる法人所得などは税率を引き下げ、全体としてはイーブンにしようというのが我々の提案です。これは、環境問題を市場経済の中に組み込んでいくための有力な手段です。過去を振り返れば、市場経済にそのコストが組み込まれていなかったために、色々な公害問題が発生したという経験があり、これは市場の失敗といわれています。したがって、環境コストを市場経済の中に入れていく具体的手段として、この考えを取り入れていきましょうという事です。例えば、炭酸ガスを吐き出す行為については課税する、あるいは有毒な廃棄物を出す部分については課税するといった考えです。しかし、増税だけだと個人や企業に抵抗があるわけで、悪い部分にバッズ課税した分は、グッズ減税という形で差引ゼロにするというように考えました。

 この問題に関して、炭素税を設定した場合をシュミレーションしてみました。日本における昨年のCO2排出量 は3億3千万トン程です。この排出量を10年間横ばいにしておきたいと考えた時、炭素税をどの程度に設定すればいいかということをシュミレーションしました。ここでは、一気に炭素税を設定すると事業ベースで影響が大きいということで、1995年は石油換算トン当り1,000円、それから10年間かけて少しずつ炭素税を引き上げて行きます。その結果 、10年後の2004年には炭素税は7,800円程度になり、税収は2兆6千億円程になります。この収入を、法人税の減税に全額充てるという前提で計算しています。そうすると、経済成長率は導入しない場合に較べて殆ど変わりません。また、石油価格は、何もしないときにはバレル当り23~24ドルぐらいを想定していたのが、29ドルぐらいに上がる結果 になっています。従来の炭素税導入の議論は、増税という観点で行われてきました。これに対しては、一方的に炭素税をかけられる産業界は大変だという議論があったわけですが、増減税ゼロということで考えれば産業界としても受け入れる余地があると思います。

 炭素税については、目的税として考えるべきとの意見が環境庁等にあります。しかし、我々は、目的税がその目的を達成したあとも存続するという経験をしてきました。例えば、典型的なものが揮発油税ですが、これは戦後道路の拡充ということで設定された税です。一般 会計から独立する形でお金が使われて、道路が今や全国各地にかなり充実して敷かれています。それでも、税金が毎年上がってくるため、実際にはもう作らなくていいような道路まで作るような形になってきています。したがって、一度目的税を作ってしまうと各省庁の縦割による縄張り争いから、その利権を手放さないために、結局税金の無駄 使い、あるいは有効に使われないという恐れがあります。炭素税のような環境税が持つ意味は、ひとえに産業構造の変換を促して、省エネ、省資源型の経済構造を構築することが目的であり、税収を上げることが目的ではないということを明確にすべきだと思います。

 このグッズ減税、バッズ課税の考え方は、私たちの市民レベル、生活レベルで考えるとゴミの有料化の問題にも当てはまります。我々の考えからすると、ゴミは有料化すべきで、しかも有料化によってゴミが削減できる程度まで、高いほうがいいと思います。あまり安いと、ゴミを選別 したり節約したりする動機が薄れます。

 また、税制についても日本は中央集権型になっています。固定資産税も、地方税でありながら中央で税率を決めています。アメリカでは、主としてゴミ対策費は固定資産税で賄われています。したがって、ゴミの有料化を実施すれば、一方では地方税収は増加する、それを原資として固定資産税を減税するといった事も考えられるわけです。このような考えを進める上でも、地方の分権化、あるいは地方が独自に財源を徴収するということが必要で、その増加した分はもう一方で、そこに住む住民に還元していくといったシステムにしていくべきだと思います。

3.環境問題と産業構造の転換

 環境問題と日本の産業の今後を考えるとき、環境問題を組み込んだ産業構造の転換が、避けては通 れない課題であると思います。現在の状況は、かなり本気で考えていかなくてはいけない時期に来ています。

 産業構造の転換については、リサイクル経済とか色々なことが言われています。企業の側から見るとまったくの理想論と思うかもしれませんが、国連大学が推進しているゼロ・エミッションという構想があります。廃棄物をゼロにしようという動きです。この構想の内容は、大きく分けて二つあります。一つは、個々の企業の中で、できるだけゼロ・エミッションに近い体系というものを、一つの工場ならその中で確立していこうという考えです。もう一つは新しい産業連鎖の形として、廃棄物ゼロに向けて異業種間の企業協力を進めていきましょうという考えです。前者の考えは、すでに多くの企業の中で積極的に取り組んでいると思います。問題は異業種間のゼロ・エミッションで、例えばA社の廃棄物がB社の原材料になり、B社の廃棄物がまたC社の原材料になるというような物の流れが、何とかしてできないかという事です。

 この点については、現在国連大学で幾つかの例を考えています。例えば、ビール醸造会社と魚の養魚場との組み合せがあります。この二つをうまくドッキングさせれば、ほとんど廃棄物ゼロの連鎖ができるということで、現在研究が進められています。産業界でもこうした動きは出てきており、例えば、自動車会社からエンジン等の鋳物鋳造過程で廃棄物として出る鋳物砂とか各種スラグを、セメント会社が原材料として使うといった動きです。今までは自分の所で出る廃棄物が、他の所で使えるかどうかあまり考えて来ませんでした。しかし、廃棄することが難しくなると、次に利用することを考え始めます。それが日本各地で広がれば、廃棄物をゼロにできないまでも、ミニマナイズすることは可能になると思います。また、ある意味でこれは企業にとっても、新しいビジネスチャンスになると思います。

 企業の視点でもう一つ指摘したいのは、銀行の環境保全への姿勢です。日本の銀行は、かつて戦後の復興期には、企業を育てるという点で大きな役割を果 たしました。しかし、この10年を見ますと、銀行の経営者自体も理想を失ったと思います。金融部門のハイテク化ということが影響しているかもしれません。環境保全型の企業、環境技術を開拓しようとしている企業に、もっと積極的に資金や知恵を出すべきです。しかし、現状はそのような発想は全然ありません。このままだと21世紀には、銀行は企業からも一般 国民からもそっぽを向かれてしまう、そういう状況にいま置かれているように思います。

4.環境問題に対する日本の姿勢

 環境問題は日本一国だけではなかなか解決できない問題であり、どうしてもグローバルな視点が必要です。しかし、その視点で取り組むとなると、とりあえずは日米欧の三すくみ状態になるわけです。例えば炭素税の問題一つとっても、それぞれが相手の出方を窺っているという状況です。一番の問題はアメリカで、彼らは世界最大の地球環境の加害者でありながら、反省が足りないわけです。石油価格は安く、石油をがぶ飲みしながら炭酸ガスを排出しています。この辺も世界的取り組みがなかなか難しい理由になっています。しかし、その三すくみ状態を続けていれば何も解決しません。

 日本は戦後、欧米に市場を解放してもらって経済発展を遂げてきました。世界あっての日本という部分もかなりあったわけです。そういうことを考えてみると、この環境問題については、日本がかなり犠牲を払っても、イニシアチブをとっていくべきではないかと考えます。

 例えば、森林維持の問題についても、外国から丸太の形で安い材木を買っている限りは、発展途上国の生活水準は上がりません。したがって、丸太に付加価値を加え、例えば、住宅の部品あるいは家具という形で製品を作らせて輸入するといったことが必要です。そうすると、日本の関連企業からは、我々はどうしてくれるという声がすぐ上がります。あちらを立てれば、こちらから反論が出て来るという問題こそが、環境問題の特徴でもあります。したがって、この点に関しては、ある程度打撃を受ける業界への手助けということは必要だと思いますが、逆に発想を変えて材木供給国に出ていって、現地に今までのノウハウを教えるという形で、合弁会社を作るといった対応方法も考えられます。

 また、現在東アジアが経済の勃興期にあり、この地域では電力不足が一番大きな問題になっています。そのために火力発電所をつくる場合、環境問題の観点からは、脱硫装置といった公害防止機器とのワンセットで、輸出することが望ましいわけです。しかし現実には、途上国はお金がないので別 々にしてくれるということになります。市場経済のもとでは、A社が脱硫装置をつけない火力発電本体だけを輸出し、B社がワンセットで輸出するということになれば、A社が勝つに決まっています。ですから、これは日本国内だけでなく、欧米などでも共通 のルールを作る必要があります。そのような事ができるのかと思われるかもしれませんが、ルールを作ればできることです。ルール化するまでが大変だとの声がありますが、環境問題というものは、もともと大変なものなのです。従来は、大変だということが、何もやらないということにつながっていたわけで、この辺が非常に悩ましいわけです。しかし、現在の状況を考えれば、大変であっても、とにかく取り組んでいかなければならないというのが環境問題の性格です。私たちの提案が、どれだけ産業界にインパクトを与えるか分かりませんが、今後もさらに力をいれていきたいと考えています。

 今回、環境問題に焦点を当てて一連の社説を展開してわけですが、その中で一つ感じたことがあります。それは、我々の周囲に物が十分に充足されているという状況の中で、人間の威厳というかプライドといったものが、失われてきているように思います。

 私は、以前、ロンドンの支局長としてイギリスにいた時に、人間のプライドというものを考えさせられる場面 に遭遇しました。1960年前後にイギリスでプロヒューム事件というものがありました。プロヒュームは当時のマクミラン内閣の陸軍大臣で、あるスキャンダルに巻き込まれ、議会で偽証してしまうのです。彼はすぐ偽証証言を撤回しますが、偽証した自分が許せないということで、大臣を辞職して一から人生をやり直そうと決心しました。彼の選んだ道は、ロンドンの貧民街の救済センターで奉仕活動をすることで、皿洗いや便所掃除という仕事から始めました。私がロンドンに行った1985年頃は、彼がそういう生活を始めて20年程経過していました。その姿勢が評価されたのだと思いますが、私がロンドンにいた時に、彼は勲章をもらい名誉を回復しました。彼は貴族の出身であり、楽な生活を送ろうと思えばそれができたはずですが、あえて一からやり直した彼の生きざまに、人間のプライドとは何かを見せられた気がしました。

 地球環境問題は息の長い問題ですから、そういうストイックなことを全ての人々に求めるわけにはいきませんが、人間の尊厳とかプライドというものは、そういう生き方であるとの認識を、地球環境問題を考えるスタート台として持っていてもいいのではないかと最近感じている次第です。

 

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