1995年10号

環境問題における日本と欧米 -その問題解決へ向けてのアプローチの違い-

 私が日本を初めて訪れた1960年代の終わり頃、日本人の環境問題に対する認識は極めて薄く、私の抱いていた期待を裏切るものであった。当時欧米では環境問題に対して活発に議論が交わされていたのに対して、日本では誰一人この問題に興味を示すものはいないようであった。しかし、1970年代に入ると日本でも環境への関心が急速に高まり、環境汚染の記事、例えば田子ノ浦港のヘドロ、排気ガス(窒素酸化物)による人体への悪影響などが、毎日のように新聞紙面 に掲載された。後に、これらの報道の多くが実際よりも誇張されていたことが発覚したにも拘らず、この問題に対する関心の高さは変わらなかった。日本はあたかも一夜にして、環境問題に無頓着な国から過剰反応する国に様変わりしたようであった。この日本の加熱ぶりに影響を受け、欧米諸国も環境への関心や懸念を更に深めて行った。

 この例が示すように、日本人が問題に取り組む姿勢は欧米とは全く異なり、非常に情緒もしくは感情に基づいていると言える。この点に関して欧米では、議論と論理に基づいて行動しようとする。つまり、問題が発生したらまず議論をし原理・原則を探し求め、合理的に解決しようと試みる。そうすることで、短時間のうちに問題意識が目覚め、行動することが可能となる。

 一方日本では、問題解決の前提として意見の一致あるいは調和が要求されるため、議論や論理はあまり役に立たず、その代わり、意見の一致を図るために長い時間と努力が必要となる。環境問題に関しては、幸い、大手新聞数社が努力を惜しまなかったため、(報道内容の誇張という手段が必要だったが)、結果 的には環境を純粋に懸念する世論を確立することができた。

 問題に対するアプローチについて、欧米と日本のどちらが優れているといえるだろうか。表面 的には欧米の方が効率的な様に思える。しかしもっと掘り下げて考えてみると、欧米のやり方には様々の問題があることが分かってくる。その一つがドグマティズムである。欧米の場合、環境の保護・改善は、どのような原則を定めるかによって左右されるため、原則がドグマ(教義)になってしまう事が応々にしてある。そうなると、環境問題とみなされた問題は、コストや手間の煩雑さに拘らず全て取り組まなければならなくなる。例えば、欧米でのイルカや鯨の保護運動は、ほとんどある種の宗教と化している。そして環境に関する細かい法規制が導入され、違反者には高い罰金が課せられるようになる。その点、日本は柔軟な姿勢を保っていると言える。

 また、議論によって問題を解決しようとする欧米式アプローチの問題点は、勝者と敗者を生むことである。環境問題論争での敗者側は常に巻き返しの機会を窺っている。米国に見られるように、環境保護政策が行き過ぎと見なされた場合、反環境派は既存の法令を取り除こうと躍起になるが、日本では合意を前提として政策が実行されるため、このような問題は回避される。

 日本と欧米のアプローチの違いを示す例はいくつもある。例えば、女性の権利について考えて見ると、欧米では、女性は男性より知的に劣っているとの見方が、長い間原則として君臨し女性を抑圧していた。ところが瞬く間に新しい原則が導入され、女性は全てにおいて男性と平等でなければならないとうたわれた。軍隊の入隊も同等にするという程、原則は変化した。一方日本では、男女はそれぞれの特性に応じて役割を分担すべきものと考えられてきた。この点に関しては、男女間に知的水準の差はないものの、頭脳の機能の仕方に違いがあるため、仕事によっては男女に向き不向きがあることが判明している。最近では、日本でもこの様な考えは一部時代錯誤になってきているが、完全に平等を主張する欧米程ではなく、ある意味でこの考えの方が筋が通 っているようにも思える。

 一方日本式アプローチの問題点は、外国人に主導権を握ってもらわないと行動しないことである。日本人が自主的に議題を提案し議論を始める事は不可能なようだ。問題の所在が明らかであると認識して初めて、徐々に議論を始めていく。そして他の国の動きを見てどうすべきかを考える。喫煙問題がいい例である。喫煙は我々の身近に存在する最も危険なものの一つで、その直接的または間接的影響により命を落とす人も多いが、日本での認識は欧米に較べるとまだ低く、ようやく議論が始められたばかりである。しかし、タバコ会社の介入によって米国議会での喫煙に関する決定が曖昧になったので、日本はこの問題に緊急に取り組む必要はないと感じたようだ。

 日本は近い将来喫煙に関してもっと良識あるアプローチが必要である。欧米の主導権に頼らず、独自で判断し決定できるようになるべきである。そしてオイルショックの時のように、感情的になり過ぎる事は避けるべきである。オイルショックを契機として、日本は世界中の資源が不足するとの認識から、他のどの国よりも資源確保に手を尽くした。しかし、資源の供給が完全に無くなってしまうような事態は起こらなかった。それどころか一部では資源の過剰供給さえ見受けられる。しかし日本の企業は、何としても全ての資源を確保しようと世界中を駆け巡り、非常に高い値段で資源を買い漁っている。このような行動の結果 が、他の国々を悩ましていることに日本としても気付くべきである。

 

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