1996年6号

戦後教育の<成れの果て>

 このところ、マスコミは責任追及の毎日である。政治家・官僚・経営者、はては該当企業や官庁の担当者のだれかれなしに、無責任だと追及している。

 その様子は、ひところの左翼陣営全盛時代のそれに似ている。団体交渉をしては、交渉相手をやっつける、土下座させる、謝罪させるといった型の二重映しである。

 けれども、果たして相手全員が悪者なのであろうか。私はそうとは思わない。この世の人間は、それこそ人間なのであって、神様ではない。一人の人間の中にいろいろな矛盾を抱えこんでおり、同じ人が、ときには善いことをし、ときには悪いことをして平気だからである。

 いま、無責任だと追及している人々は、本当に善者であって悪者ではないのであろうか。

 たとえば、あのバブル経済華やかなりしころ、増えた税金で国家予算が拡大され、それが使われて国民に行き渡ったはずである。すなわち、日本人のほとんどが、多い少ないは別 として、なにがしかの利益を得たはずである。しかし、そういう利益については、だれも口にしようとはしない。それどころか、だれかが得をしたという気分になっており、それが<無責任の追及>の気分となって現れている。そこには本当の道徳的怒りがあるというのではなくて、いま日本全体を覆っているありかた、すなわち、自分は正しく、すべてまわりが悪いとするありかたがある。

 日本人は、どうしてこういうようなありかたになってしまったのであろうか。

 儒教において「慎独」という言葉がある。「君子は、その独りを慎む」ということで、儒教に四書という必須学習文献があったが、その四書の中の『大学』や『中庸』に出てくることばである。

 「独り」とは、だれも見ていないことである。人間は、だれも見ていないときやところにおいては、勝手なことをしがちである。そのときこそ、「慎む」ことができることが大切だという意味である。

 そこには、徹底的な自己規律がある。そういうことが十分にできている人ならば、他者の責任の追及をしてもおかしくない。けれども、いま大声をあげて相手の道徳的責任を追及している人々は、己を顧みて本当に「慎独」が確かなのだろうか。

 中国は明王朝のころ(西暦1500年前後)、王陽明という思想家がいた。行政官僚であったが、反乱軍の鎮圧が上手であった。しかし、或る人はそのことをこう述べている。有名なことばである。

 山中の賊は破り易く、心中の賊は破り難し。

 心中の賊-------人間は他人は許さないが、自分は簡単に許す。心中の賊ほどやっかいなものはないのである。しかし、己の道徳的責任の追及は、自分自身ならできるはずである。いや、道徳的責任というとき、完全ではないわれわれ人間は、他人のそれを追及することはできないが、自分のそれは追及できるし、しなければならないのである。だが、なかなかむつかしい。王陽明は、それを言いたかったのであろう。

 道徳的責任の追及に比べて、刑事責任の追及のほうがずっと楽である。なにしろ法律上の責任追及であるから、ほとんどの場合、だいたい善悪がはっきりしているし、警察という大応援団がついてくれる。

 それに比べて、道徳的責任の追及は、よほどの人物でないかぎり、他者に対してほとんどできない性質のものなのである。

 にもかかわらず、いまや毎日、他人に対する道徳的追及が行われている。それはもはや、法的責任追及の気分であり、相手に対して罵声を浴びせている。

 しかし、それはほとんど無意味なことなのである。罵声を浴びせれば浴びせるほど、その醜い言動に対して、相手は、直観的に、罵倒している人に道徳性を感じ取らず、単なる誹謗と受け取るのが世の常である。

 当人も相手も、道徳などどこかへ消しとんでしまっており、残っているのは、憎悪と不信という不毛の感情だけとなってしまう。

 こうなっているのは、道徳の本質、すなわち、自己の良心への問いかけ、心中の賊を破る努力、独りを慎む厳しさ、そのようなことを今の学校教育ではきちんと教えないからである。いわゆる日教組は団交で相手を罵倒し続け、責任は全て社会や環境や他人になすりつけ、己については利己心を肥大させることを生徒に教え続けてきた。いまや日本国じゅうが大合唱の<責任追及>という罵声は、戦後五十年の<責任はすべて他者になすりつける教育>の成果 、いや<成れの果て>である。

 

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