1997年9号

「中国は脅威か」を読んで

 海の向こうの「大中華帝国」に対する畏れは、歴史的にも、感覚的にも、日本人の国際社会のイメージに大きな影響を与えてきた。ふつうの日本人にとって、「国際社会」などというと、一昔前までは万国旗が飾られた国際会議場で、威儀を正した各国の首脳たちがにこやかに握手を交わす情景が思い浮かんだものだろう。その中で、日本人と同じ顔立ちをし、地味な人民服を着て、仏頂面 をしているか、わざとらしい笑みを浮かべている。それが中国のイメージだった。

 近年は、めざましい経済成長、改革解放路線の定着といった面 が伝えられ、対中ビジネスの拡大に伴って、華人経済の勃興、国家が一丸となって経済成長に邁進する商魂たくましい中国人の姿が見えてきた。

 ところが、中国に関する情報量が増えるにつれて、核兵器をともなった軍事力、社会の変化や経済成長に伴うさまざまな歪みなど、この巨大な国の姿は、ますます不透明さと不可解さを増しているように思われる。21世紀に向けての日本の国際戦略を考えた場合、感覚的な脅威論や「中華文明」に対する歴史的な憧憬を払拭した冷静な対中認識、長期的・総合的な対中戦略の形成が今こそ求められている。

 中国に対する日本の関心は根強いものがあり、中国研究者の層は厚くなっており、書店には中国ものの本が数多く出回っている。しかしながら、中国という国は依然として情報が取りにくいこと、また、日本国内の中国研究者が経済、政治、文化など分野別 の縦割りに専門化されていること、中国という国があまりにも巨大で一人の研究者の手には負えないこと、といった事情から、総合的な視野に立った実証的な中国論は少なかった。しかし中国こそ、その巨大さゆえに、日本の国際戦略にとって、米国と並んで総合的・戦略的に見なければならない対象なのである。

 このような観点から、本書は、総合的な中国論として時宜を得たものと思われる。本書は、現代中国政治の権威である天児慧教授の編によって、政治・経済・文化・社会にわたる気鋭の研究者による中国レポートを集成したものであり、専門分野を細分化したことによる緻密さと実証性を活かしながら、「中国脅威論」の当否を多角的に検証した内容となっている。

 幅広いテーマにわたる本書のねらいを理解するために、天児教授の言葉をお借りしたい。「われわれが一般 に『中国脅威』を語る場合、そこには二種類の脅威が含まれている」「第一は、中国が膨張、強大化する脅威である」「第二には、中国が混乱、無秩序化することによって生じる脅威である」。「イメージとしての脅威、脅威を与える意図、脅威となる能力があるかどうかを検討しなければならない」。

 また、天児教授は「中国は敵として扱うと敵になる」というジョセフ・ナイの言葉を引きながら、中国の「政治が安定することによって脅威が減少する」ケースに向けた対中国アプローチを説く。これが本書の基本的なトーンとなっている。

 また、各論は、政治・経済をはじめ、軍事、環境といった面 にわたっており、とくに中国をめぐる国際関係は、日米関係と中国との関わり、ASEANとの関係、台湾問題、香港問題など、きめ細かいテーマに分けて論じられている。

 たとえば、中国の軍事的な脅威については、兵器の質などの現状が必ずしも「脅威」という実態にはあたらないことを茅原論文は指摘する。また、中国の対外政策における穏健路線とナショナリズムとの微妙な関係を浅野論文は指摘する。

 中国の「内的混乱」の可能性については、高原論文が中国における中央と地方の関係の中での求心力と遠心力の交錯を論じている。菱田論文は、経済成長の過程で拝金主義的な風潮を強める中国社会の行方を分析している。

 このほか、中国論に新たな視点を加えているのは、中国の環境問題を論じた戸崎論文であろう。政治・経済の視点が中心となりがちな中国研究の中の一章に環境問題が加えられていることには大きな意味があると思う。中国に起因する酸性雨が日本で観測される今日、この問題は喫緊の課題であるが、経済成長に邁進する中国が環境問題をどの程度真剣に考えているのだろうか。ふつうの日本人にとっても大きな関心事であろう。戸崎論文は、中国における環境対策のむずかしさ、日本モデルの移転の困難さを指摘するとともに、中国における労働賃金の安さを活かしたリサイクル・システムの構築、中国全土にわたる輸送体系の構築に日本が参画すべきことなどを提唱しており、単なる悲観論に終わらない内容となっている。(この本は、財団法人地球産業文化研究所における「中国の行方と日本の戦略研究委員会」の成果 を踏まえたものである。)(定価3,300円)

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