2000年2号

グローバル市場競争時代における 教育・人材育成のあり方」研究委員会中間報告

  最近話題の学力低下に関する問題を中心に、9月より活動している標記研究委員会(委員長:京都大学 経済研究所 西村和雄教授)の議論内容を紹介する。


1. 学力のデフレスパイラル

 近年の日本経済状況とダブらせて、学力低下の現状を「学力のデフレスパイラル状態」と苅谷剛彦助教授(東京大学大学院教育学研究科)は命名している。

 小学校教師に対するアンケート結果 によると「分数のかけ算・割り算を教えることができる」と答えた先生は、たったの3割であったという。「ゆとり」教育の名のもとに授業時間と入試科目数が削減され、それに少子化による大学進学率の上昇も加わって、将来教師となる学生の学力が低下する。それらの教師に教わる学生がまた教師となるのである。

 さらに2002年度からの新学習指導要領の実施により、全ての小・中・高校で完全学校週5日制が導入され、教育内容はさらに3割削減される。日能研の車内広告でご存知の方も多いだろうが、小学校では台形の求積計算を教えなくなるほか、小数点第2位 以下の計算もなくなる。中学校で全員が共通して覚える英単語数は507から100にまで減る。2002年度以降は、今の小学4年生程度の内容を中学1年生に教えることになる。

 スパイラルはさらに急角度で落ち込もうとしている。

2. 学力低下の現状 ―ゆとり教育の影響―

 中央教育審議会が1999年12月にまとめた「初等中等教育と高等教育の接続の改善について」の答申によると、大学生の学力低下については、「それを明らかに示すデータはな」く、「学力が低下したと断定することはできない。」「仮に、大学生の学力低下があるとすれば、大学進学率の上昇により、平均的学力が低下していることが考えられ」るとしている。つまり、92年の現行学習指導要領の実施以降、文部省が推進してきた「ゆとり」教育の副作用としての大学生全体の学力低下は起こっていないとの主張である。

 教育内容をさらに3割減らすことを掲げた新学習指導要領の説明資料によると、教育内容を減らしても学ぶ意欲や知的好奇心を身につけることによって、むしろ「生きる力」としての学力の質を向上させられるとしている。

 以上は学力低下および教育内容削減についての文部省見解であるが、以下に本研究会で紹介されたデータをいくつか紹介する。

 下記の表1は河合塾が95年度(約41,000人)と99年度(約29,000人)の入塾生を対象に、全く同じ問題で行ったテストの正答率の増減を示したものである。いわゆる浪人生が対象のテストであり、直接的に高校卒業生の学力を比較していない恐れがあるので、現役生も含めた約23万人を対象に実施した全国統一マーク模試の結果 に基づき、その偏差値別にグループ分けしてから、両年度を比較している。

 わずか4年の間であるにもかかわらず、ほとんどの教科で正答率低下が見られ、特に数学・物理での落ち込みが、中上位 校でさえかなり大きいことが目を引く。この4年の間の変化点は高校(94年)、小中学校(92年)での指導要領改訂である。95年度受験生は、ほぼ旧指導要領での教育を受けているが、99年度受験生は小学6年生以降7年間、「ゆとり教育」を受けてきた世代である。

 鹿児島県教育委員会は1999年6月に、「基礎学力をめぐる現状と課題」という報告書で、同県の高校入試のデータを公表している。5教科各々の試験問題のうち、小学校程度の学力があれば正答できる問題に設定された点数(100点満点換算で約18点相当)を目安点とし、各教科の得点が目安点以下であった生徒の比率を下記の表2に示してある。

 5教科のうち目安点に達しなかった教科が少なくとも1つある生徒が約10人に1人いることになる。鹿児島県ではこれらのデータを過去5年にわたって取り続けており、目安点以下の生徒の比率は、この間ではほぼ一定としている。しかし、5年前の高校受験生は、すでに現行指導要領による「ゆとり教育」を中学校3年間受けてきた世代なのである。

 文部省には、学力低下の現状を正面 から見据えた論議を期待したい。外部の調査結果を信用できないのであれば、自ら学力調査を実施し、正しい現状認識に基づいた教育政策を策定するべきである。

  表1

教科名 上位 ジョウイ コウ チュウ 上位 ジョウイ コウ 中位 チュウイ コウ 下位 カイ コウ
英語 エイゴ 0.6% 1.3% 1.2% 1.1%
数学 スウガク ( 理系 リケイ ) 3.0% 9.0% 15.3% 15.6%
数学 スウガク ( 文系 ブンケイ ) 0.5% 8.7% 19.0% 16.7%
現代 ゲンダイ ブン 0.3% 0.2% 0.7% 1.3%
古文 コブン 2.7% 1.1% 0.6% 0.1%
物理 ブツリ ( 理系 リケイ ) 3.4% 7.3% 4.5% 1.1%
化学 カガク ( 理系 リケイ ) 0.3% 0.5% 0.0% 1.2%
世界史 セカイシ 1.6% 2.5% 1.1% 0.6%
日本史 ニホンシ 5.3% 6.1% 4.4% 2.6%
上位 ジョウイ コウ 偏差値 ヘンサチ 65.0 以上 イジョウ 中上位 チュウジョウイ コウ は64.9~55.0、 中位 チュウイ コウ は54.9~45.0。下位 カイ コウ は44.9 以下 イカ 。(▲はマイナス)。

                      表2

  コクゴ 1.3%
  シャカイ 1.3%
  スウガク 5.9%
  リカ 3.7%
  エイゴ 4.3%
5教科キョウカ総点 ソウテンが目安 メヤス テン未満 ミマン人数 ニンズウ 1.6%
目安点未満のキョウカ
1教科 キョウカ 以上 イジョウ
ジツ人数 ニンズウ
9.5%
受験者 ジュケンシャ 総数 ソウスウ 18278 ニン


3. 「生きる力」のための教育―心理学的アプローチ―

 授業についていけない子供の割合が、高校で7割、中学校で5割、小学校で3割と言われることから『七五三』といって教育界では以前から問題視されていた。これらの比率を下げて「落ちこぼれ」をなくし、子供たちの「総合的な学習力」や「生きる力」を向上させることを目的に、92年から「ゆとりの教育」が導入された。

 しかし、苅谷助教授らが79年と97年に同じ高校の生徒(11校/1375人)を対象に行った比較調査によると、「教科書の内容が難しくてついていけない科目が多い」生徒が30%から43%に増えており、また1日の平均学校外学習時間は97分から72分に減っている。少なくともこの数字を見る限り、「落ちこぼれをなくす」「総合的な学習力を身につけさせる」という目的は果 たせていない。

 単に授業時間や学習内容を減らすというのではなく、心理学に基づく教育を行ない、子供に「生きる力」を身につけさせようという試みが、イスラエル・アメリカの一部で行なわれている。

 アドラー心理学に基づく教育法では、学校教育の目的を「尊敬」「責任感」「社会性」「生活力」の4項目としている。カリキュラムは、おおまかに3等分されており、いわゆる学科教育の時間が3分の1、カヌーを作る・演劇をする等の創造性教育の時間が3分の1、コミュニケーション能力を高めるための教育に残りの3分の1が割り当てられている。校則は、1)暴力の禁止、2)授業時間は教師のいる場所にいること、3)「出て行け」の指示をされた生徒は教室を出ていくこと、の3ヶ条のみである。小・中学校一貫の教育が行われることが多いが、学年という概念はなく、子供たちは自分自身の習熟度に合わせて自分でどの授業に出るかを選択する。卒業するために必要な単位 の指定はあるが、どの時間にどの授業に出るべきという強制は一切ない。にもかかわらず、卒業年次になると、ほとんどの学生が予定通 りに卒業していく。実質的な学科教育の時間が3分の1しかないにもかかわらず、学業成績は全国平均なみであるという。

 この例が示すように、強制されることなく自分自身で選択する権利を与えられた子供たちは、自ら喜んで勉強するようになり、本当の「生きる力」「総合的な学習力」を身につけ、少ない時間で多くの内容を理解できるようになるのである。

4. 危機に立つ国家

 日米経済の力関係が今と全く逆であった1983年に、アメリカ教育庁長官の諮問機関である「優れた教育に関する全国委員会」が『危機に立つ国家(A Nation at Risk)』という報告書を作成し、3500万部のベストセラーとなった。学生の学力の著しい低下、学習時間の少なさ、教師の質の低さを指摘したこの報告書をきっかけに、アメリカ各州は教育改革に踏みきった。またエリック・ハーシュ教授(ヴァージニア大学)は、『教養が国をつくる(Cultural Literacy)』(1987年)で、アメリカの教育は創造性や個性を重視しすぎたために大学生の基礎知識の著しい低下を引き起こしていると指摘した。当時、ハーシュ教授がモデルとしたのは、日本とスウェーデンの初等教育であった。

 80年代、アメリカは、これらの世論の追い風を受けて教育レベルを向上させ、それと期を一にして、めざましい経済復興を成し遂げたのである。

 今、『危機に立つ国家』である日本は、当時のアメリカと同様、金融改革・産業構造改革に加えて、教育改革も大胆に推し進めなければならない。

(文責 事務局 古見孝治)

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