2000年3号

「Perfectな人間」と日本の行方

 今日わが国を取り巻く国内的、国際的状況はきわめて厳しい。長期に続く経済の低迷は昨年あたりからやや回復の兆候が見られるとは言うものの、度を越した国債の発行などによるところが多く、消費の冷え込み、大型銀行や一流企業にさえ及んだ数々の倒産、大量 の失業など先行き不安は依然として改善に向かっていない。それは日本経済そのものの「地盤沈下」とも見なされるほどに深刻である。他方で政治の世界も、90年代初頭の自民党「永久政権」の崩壊以降、様々な政治改革が試みられてはいるものの、より合理的民主的な新たな政治システムが創造されるどころか、その後も政党の離合集散は続いている。「自自公連合」の今日に至っては主義・主張そこのけの「野合」といわれても仕方のないほどに、一般 国民の常識と理解からかけ離れたものとなってしまった。まさに「混迷」「迷走」である。「日本丸」はどこに向かうのか。あるべき経済、政治はどのようなものか。

 国際情勢も冷戦終結以後、新たな段階に入りながら、その行方は不透明なままである。そうした中で「一超覇権」を保持しようと現状維持政策にこだわる米国と、ひそかに将来それに挑戦しようと「多極化」を図る中国が、時に人権問題や安全保障政策、「台湾問題」などをめぐって摩擦を起こし対立している。三月の総統選挙を控えた台湾の出方は中国の対応を大きく左右するもので、それ次第では対米国・日本関係ひいては東アジアの緊張を加速しかねない。「貧困化」と「軍事化」の進む北朝鮮を抱えた朝鮮半島問題も一挙に不安定化の可能性をはらんだままである。これらはわが国に直接重大な影響をもたらすものである。その他東チモール問題と経済不振に悩むインドネシア、核拡散を誘発しかねない印パの軍事的対立など、アジアの平和と安定にとって深刻なイシューが軒並みである。現代アジアを専門とする筆者にとって、10年後のアジア、20年後のアジアの政治経済構図が現在と大きく変わっているだろうことを強く予感する。日本を取り巻く国内外情勢はこのように安閑としていられるようなものではなく、現段階はドラスティックではないにしても重大な転換の渦中にあると言うべきであろう。

 しかしながら、われわれ日本人という主体は冒頭のような力量 をつけていると言えるのか。新潟の少女監禁事件、桶川のストーカー殺人事件、京都の児童殺害事件など、寒々しいまでの「身勝手で、自己中心で、簡単にキレル」若者の行動、「厚底靴」、「ガングロ」にみられる外見ばかりの刹那的な若者の群れ、これらは決して他人事ではなく、ある面 で現代日本の世相を反映していると言えるかもしれない。次代を担う青年達に、あるいは次代の日本に憂いを感じている私は、唯の愚痴っぽい「オジサン」でしかないのだろうか。

 いま教育の見直しが真剣に問われている。偏差値教育、詰め込み教育、知識偏重教育の歪みが問題になってきた。

 「ゆとりある教育」「国際化、情報化に対応した教育」が叫ばれている。しかし結局のところそれは何を目指すのだろうか。目指すものをしっかりと定めなければ、またしても形ばかりのものでしかなくなる。そこで私は「Perfectな人間」の創造を教育の目標として提起したいのである。人間が何かをなそうとするならば、必ずやしっかりとした見通 し(Perspective)を持って自分を取り巻く環境(Environment)を的確に認識し(Recognize)、かつ自分自身の感性(Feeling)や情熱(Earnest)を大切にしながら、創造性を豊かにし(Creative)、少々のことではへこたれない強靭さ(Toughness)を持つことが何よりも大切である。つまり客観的状況をしっかりと把握する能力を持つこと、と同時に熱く燃えるものを感じながら新しい何かを創ることに頑張り続けていく主体的な力量 を持つことである。私はこうしたことの出来る人間を、各単語の頭文字を取って「Perfectな人間」と表現してみた。

 そのためには、若者ができるだけ既存の枠にとらわれず、人間としての喜びや痛みを知る豊かな情緒を育て、思いきって何かにチャレンジし、苦しいも甘いも酸っぱいも含まれた様々な機会に出会い、自分で考え解決しようとすることが重要なのだろう。家庭や学校、社会がどれだけこうした豊かな経験を積ませる機会や環境を提供することができるのか。若者自身もどれだけ自覚的にこうした場を求めることができるか。長い間に作られた箱型・エスカレーター式教育の脱皮は容易ではない。しかし「日本丸」がこの厳しい転換期を乗り越えるには、そうした教育への脱皮こそ鍵なのだと思う。

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