2001年2号

欧州の環境経済学と温暖化問題研究の最前線 ーティルブルグ大学を訪ねてー

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 昨年11月、オランダ、デン・ハーグでのCOP6に赴いた際、ヨーロッパの環境経済学研究のメッカとなりつつあるティルブルグ大学(Tilberg
University)の「CentER」と呼ばれる経済研究所を訪問する機会を得たので、その内容を踏まえ環境経済学および、地球温暖化問題の国際交渉に対する個人的な考えを述べたいと思います。

 ティルブルグ大学の訪問が可能となったのは、デン・ハーグの中心に位置する社会問題研究所のオプスホール所長(実証の得意な環境経済学者で、リオの地球環境会議やIPCCの第3次評価報告書の作成でも活躍)を訪ねた際に、昨年までヨーロッパ環境経済学会の会長職にあり、かねてよりその数々の論著を通して尊敬の念を抱いていた、ティルブルグ大学のデ・ジュー先生を紹介され、帰国の前日に訪問することになりました。

 電車に揺られること約2時間、デ・ジュー先生の研究室を訪問すると、持続的成長の経済理論の第一人者として活躍されるスマルダーズ先生や若手の研究者を何人も紹介され、京都メカニズムの有効性、シンクの扱い方、途上国への支援問題など議論はつきませんでした。議論を通して、彼等は非常に洗練された分析ツールを有しているだけでなく、研究上のひらめきに不可欠な直感および頭の柔軟さを持っていることも感じました。その他にも、幅広い分野で数々の本を出版されているフォーマー教授、環境と経済成長の分野で活躍されているウィサゲン教授、環境政策に対する不確実性の影響を研究されているコート教授と、CentERには環境経済学における「ドリームチーム」が構成されているといってもいいでしょう。日本における環境経済学の現状と照らし合わせた場合、その違いの原因として経済学における環境経済学の認知度が挙げられるのではないでしょうか。オランダでは優秀な学生が益々環境経済学を専攻し、それが更にオランダの環境経済学を高めるという「好循環」が存在しているようです。優秀な研究者ェ増えることにより、学問的成果の上でも、「正の・外部性」、あるいは、都市経済学で言う「集積の経済」が生まれてくることでしょう。また、博士課程の大学院生は基本的に給料をもらった上で、自由に研究を行っています。日本にも同様の制度が存在していると思いますが、研究面での自立度はオランダの学生に分があるように思います。加えてヨーロッパ内での研究者、学者の交流は驚くほど盛んになっています。


 ここで、彼等との会話をふまえ、温暖化問題の解決策を検討する際に重要であるにも関わらず、交渉担当者の関心が薄いと感じられる部分に限定して、経済学の提供する視点を少し紹介したいと思います。

 あいにく、デン・ハーグでのCOP6は決裂してしまい、京都議定書の早期実行は難しい状況になりつつありますが、却って温暖化問題の解決策についてより本質的な議論をする機会を得たのではと思います。周知の通り、京都議定書の意義は国際的な温暖化対策のスタートを切るところにあり、長期的な温暖化のメカニズムを考えると、数年の遅れが温暖化問題を大きく左右するとは思えません。そもそも、京都議定書の理念がはっきりしないまま、その細部に渡るルールを決めることにこそ無理があるのではないでしょうか。この際より長期的、包括的な視野で問題を捉え直すべきであると考えます。次のリストはほんの一部分に過ぎませんが紹介します。

1) 各国がそれぞれの国益にこだわるのは仕方ない。まず「温暖化対策を行うことで利益を受けるのは誰か?」ということを意識する必要があると考えます。Pronk議長も、IPCCのWatson氏も「温暖化問題に関しては、各国が損を受け入れることが肝要」という主旨の発言をしてますが、損をすることがはじめから明らかな国際条約が成功する可能性は少ないでしょう。少なくとも各国が進んで交渉に参加するインセンティブを提供する取り決めが必要に思います。経済学では「個人合理性を満たす」という表現をします。
2) 地球温暖化の被害も考慮する。対策にかかる費用だけでなく、対策を行った際の便益分も可能な限り考慮すべきです。後者は、温暖化ガス排出削減で回避されるであろう環境被害に対する評価です。温暖化の被害は明確に把握されていない為政策に反映できないとするのは合理的と言えません。確実な情報がなくても、リスクを含めて政治的な評価を下すことは可能です。換言すると、情報が不確実でもそれを可能な限り利用して政策的判断の助けとするべきです。その際は削減投資と温暖化現象にまつわる不可逆性を考慮にいれて対策の内容とタイミングを決定することが重要となります。
3) 京都議定書の“Environmental(and Economic)Integrity”とは?2008年から2012年の間、先進国全体で1990年比で5%削減するという京都議定書の目標そのものに説得力が欠けていることが混乱の一因と思います。さらに、ホットエアー問題の根本的な対策が講じられないこと等にも不満を感じます。やはり、多少なりとも温暖化の被害を考慮に入れた政策への視点が必要と考えます。経済学の貢献は、与えられた目標を最小の費用で達成する政策の模索に限られるべきでしょうか?多分に理想的な考え方とはいえ、経済学は純便益(=粗便益-粗費用)を最大化する「最適な」政策に対する示唆も提供してくれます(温暖化のような国際的な問題に関しては、各国の純便益をどう集計すべきかという倫理的に大きな課題もありますが)。これは、何を以って、温暖化問題が「解決する」と見なすかという根本的な疑問にも関連します。
4) 効率性(経済的最適化)と平等性(配分)の両立を目指す。この両者は必ずしも二者択一的な目標ではありません。理論の上では、途上国による「一人あたり二酸化炭素排出量の均等」という基本的人権に根ざした主張に配慮した所有権レジームの下でさえ、国際排出権市場により完全に効率的(経済学で言う「最適」)な対策を行うことも可能です(もし仮に温暖化問題に関して慈善的で強権的な世界政府があれば)。より現実的には、少なくとも上に記した各国の「個人合理性を満たす」という制約がネックとなって、当初はある程度の平等性が失われるでしょう(しかし、長期的には途上国の経済成長により平等性の問題も徐々に解消すると思います)。反対に、平等性を保持しながら、効率性を犠牲にする選択肢もあります。その場合、利他主義も含めて、世界市民的意識があれば、温暖化ガス削減の効率性における損失が小さくなるとも考えられます。


 以上、現在の交渉をめぐる根本的な疑問のいくつかを述べさせていただきました。私自身の考え(むしろ「期待」)では、自然科学者と各国の政策担当者の関心にはギャップがあり、それを埋めるには「与えられた環境(制約)の下でどのような意思決定をするべきか」を中心に研究してきた経済学者の果たす役割は大きいと信じています。また、他分野の専門家の方々と協力して、地球温暖化問題を解決するための議論に積極的にQ加することは経済学者の社会的責務であるとも考えます。

 最後に今回のオランダ訪問では、ヨーロッパの人々の考える豊かさは、アメリカ人や日本人のそれとはかなり異なると感じました。また一市民として、本当に豊かな暮らしとはどういうものか、という問いについても考えさせられるよい契機になったように思います。そしてなにより、一週間滞在した中世さながらのデルフトの街に響く新教会の鐘の音は、一人の旅行者の胸に永続的な安らぎの源を与えてくれました。

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