2005年5号

日本の「危機的」エネルギー問題について 考えよう

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 原油価格が高騰している。国内石油製品、ガソリン、灯油といった生活関連品にも、その影響が出始めてきた。個人的には「石油危機的」と「的」を付けることで曖昧にはしているのだが、この状況をどう捉えておくべきなのだろうか。


 「的」とは言え、「危機だ」、もう少し慌てたっていいはずだが、世間は案外落ち着いている。「ガソリン高くて困ったよ」という話は耳にすることはあっても、深刻というほどのことはない。むろん、深刻になったところで、対応策は節約ぐらいしかないのだから、それでもいいともいえるのだろうが、こんな時こそ、多少、真剣に日本のエネルギー問題は如何、ぐらいなことを考えてみてもいい。

 今回の高騰要因は産油国の生産余剰力の低下。中国などの需要の増加。さらには米国のハリケーン被害などとされている。石油専門家のご宣託である。その通りなのだろう。「危機」という言葉は、一バレル百ドル突破ということでもない限り遣えないとも。為替の問題もある。確かに「危機」と断言はできない。

 だが、「的」を付しての「危機」ではないだろうか。IEA(国際エネルギー機関)の決定に従って、日本も石油備蓄の放出を実施した。湾岸危機以来のことで、三度目の備蓄放出だ。二次、湾岸と過去二度の「放出」には「危機」が付いている。

 今回も「危機」としてしまって、おかしくはない。新聞の隅っこの方に「第三次危機」という言葉も見つけられなくもないのだが、これにはさすがに、やはり気が引ける。となって「的」をつけて「危機的」としている次第。

 それは「危機的」でも「危機」があることで注目されるから、エネルギー問題へ少しでも関心を持ってもらえそうと思えるからにほかならない。エネルギー問題は通常、ほとんど関心が持たれない。大問題になどなるのは原子力に関連しての事件・事故ぐらい。うっかり日本のエネルギーはいかにあるべきか、などと言い出すと面倒な話をするなといった趣きとなる。多分、それでいい。通常は。

 だが、しかし、時には考えることも必要で、目下の状況がそれにふさわしい。例えば、日本のエネルギーは約95%を海外に依存しているということ。そのうち石油の九割が中東に依存していることを確認しておくだけでも無駄ではない。

 普段、ガソリンを入れる時になど、これはできない。それでいいのだが、何事にも好機というものはある。ご縁といってもいいのだろうか。

 今、エネルギー問題では原子力でプルサーマルを巡っての議論が喧しい。狭く、その安全性などだけに焦点があるため、という面はないだろうか。九割以上を海外に依存している日本の選択として考えてみれば、また、違った側面が見えてくるはずである。

 アメリカが包括エネルギー法を成立させたのはなぜか。このところ、通奏低音のようにある不安的状況があるからではないか。原子力を政策助成までして、促進しようとしているのはなぜか。中国がなりふり構わず、原油調達に走っているのはどうしてなのか。東シナ海波高しだが、その背景は何だ、など、考える素材はいくらでも出てきている。

 むろん、煽るつもりはさらさらない。「危機だ」と声高に叫ぶだけでは、解決はない。日本にとって、その選択肢は余りにも狭い。まず心配はないものの、パニックを引き起こすようなことは絶対回避しなければならないのだが、一方のノンビリムードも困る。

 エネルギーの自由化は電力、ガス、石油などで着々進行中であり、これからもし「危機」が来るとすれば、この大きな環境変化のなかにやってくる。対応も以前とは違ってくるだろう。行政介入などはもはや簡単にはできない時代なのだ。石油についていえばすでに石油業法は廃止されてなくなってしまっている。

 時代の潮流というものもある。規制緩和で経済活動が活発になることもこれまた重要であるに違いない。エネルギー関係していえば、環境も大きな課題だ。エネルギーに「安定供給」を求めていればいいという時代は終わった。

 それでも優先順位は自ずからあるのではないか。これまでの経験から言えば、日本は「安定供給」に半分の比重を置いておきたい。

 そんなこんな、今回の「危機的」状況は様々考えさせてくれている。折角の機会としたい。「狼少年」と言われようとも。

 

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