2007年4号

地球産業文化研究所を生み、育てて頂いた平岩外四先生を悼んで

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 平岩外四先生は、平成十九年五月二十二日午前十時五十六分、逝去された。その訃報が伝えられると、各界から「卓越したリーダー」、「強い信念の人」、「穏やかで大胆」、「改革の先駆者」などとその死を惜しむ声が相次いだ。

 平岩氏は、財団法人地球産業文化研究所の初代理事長である。私は、一九八六年から八八年にかけて通商産業省(現在の経済産業省)で事務次官を務めていたが、その当時から地球問題を研究し、提言するシンクタンクを設立したいと考えていた。当時は、ソ連の改革から東西冷戦の終結が予見され、新しいグローバル・ガバナンスが求められる環境にあったし、地球環境の破壊が深刻な国際問題となるとの予感があったからである。

 私は、一九八八年六月に通商産業省を退任してから、通商産業省の大臣官房企画室を実務部隊として、そのシンクタンクの設立準備にとりかかった。名称は、「地球産業文化研究所」とすることにした。それは、地球時代の到来に備えて、人口、環境、安全保障、通商などの新しいグローバルシステムの構築に挑戦し、その中で産業と文化の新展開の方途を探求しようと考えたからである。当時は、日本では、大気汚染や水汚染といった公害問題には関心があったが、地球温暖化や人口問題などには、まだ注目を集める状況にはなかった。その点では、画期的な試みといえるものであったかもしれない。

 幸いにして四十社を超える企業の賛同を得て、一九八八年十二月一日に地球産業文化研究所が目出たく発足した。初代理事長には、当初から平岩外四氏にお願いすることにしていた。東京電力は、真先に参加を表明して頂いていた。

 理事長へのご就任をお願いに参上すると、平岩氏は、「福川さん、これは将来大問題になりますよ。この分野で、日本でリーダシップがとれれば、素晴らしいですね」、と即座にご快諾頂いた。そして、二〇〇三年まで十四年間にわたり、理事長として地球産業文化研究所をご指導いただいた。地球産業文化研究所の今日あるのは、平岩氏の指導力の賜物である。

 平岩氏は、その後、一九九〇年から九四年まで第七代経団連会長を努められた。その功績として、細川内閣当時の政治献金あっせんの廃止(一九九三年)や構造改革を強調した平岩レポート(一九九三年)などが指摘されている。

 私がもう一つ注目していることは、平岩氏が経団連会長に就任された時の挨拶の中で、今後の重要課題として「地球・人間・技術」をあげられたことである。平岩氏の頭の中に、地球問題の重要性、人間尊重の哲学、新技術によるイノベーションの促進が強く認識されておられたのであろう。その時、私は、経済人を超えた思想家としての平岩氏に強く胸を打たれたことを覚えている。

 一九九一年、経団連が地球環境憲章を作成し、共生を目指して企業行動の新しい指針を打ち出した。それが今日に至るまで、産業界が地球環境に取り組む基礎をなしている。

 私は、通商産業事務次官在任中に、二十一世紀初頭の万国博覧会を愛知県で開催する基本方向を打ち出していた。その後、順次それが具体化していき、その第一次構想の作成を地球産業文化研究所が愛知県の依頼を受け、担当することになった。その際も平岩氏は「その仕事は、地球産業文化研究所にふさわしいですね」といって賛同して頂いた。二〇〇五年に開催された「愛・地球博」は、「自然の叡智」をテーマに予想を遥かに超える大成功を収めたが、当初の地球産業文化研究所の報告は「新しい地球創造」であった。

 愛・地球博に先立って、二〇〇〇年にハノーバーで万国博覧会が開催された。その準備段階で国際アドバイザリーボードが設けられ、依頼を受けた平岩氏のご指示で私がそれに参加した。平岩氏は国際博覧会にも深い関心を懐いておられた。

 愛・地球博の終盤9月に、豊田章一郎博覧会協会会長のお誘いで、平岩氏が会場を視察された。私が館長をしていたグローバル・ハウスにも元気な姿を現され、しばし、懐旧談をしていかれたことも、昨日のように思い出される。現在地球産業文化研究所が愛・地球博の継承事業を担当しているのも浅からぬ縁によるのかもしれない。

 我々は、平岩氏から多くのことを教わった。平岩思想をさらに発展させ、共生の地球社会を実現していくことこそ、我々が挑戦すべき課題なのである。

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