2008年3号

ほんの少し、今の「不寛容社会」にゆとりを

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 「許されざる社会」、いや「許さない社会」。いやいや「不寛容社会」か、などと目下の社会をあれこれ位置づけています。全くの個人的な社会観なのですが、今の時代、追及は厳しく、寛容性が薄い。そんな感じがあるからです。実は以前には「日本は無目的社会」と考えていました。その延長、結果かとも。
 もう二十年以上前のことになります。三年と余の新聞社の特派員生活を終えて帰国して間もなくのことでした。当時は一時帰国など認められておらず、日本社会には三年余の空白がありました。その際に知人、友人の帰国歓迎の場があり、その都度、感想を求められ、そんな独りよがりの定義をして帰国挨拶に織り込んでみました。しかし、もう「無目的」は常識のように見えます。このあたりで、と「不寛容」としてみたまでです。
 「無目的」とした理由は帰国時の社会の目標がバブル経済の入り口にあって、精神的な価値・目標の姿勢を失っていたと思えたからでした。そこで三大話しをつくりました。ひとつは、以前であれば個人的なお金の話は人前ではしないのが常識だったのに、株の話しを公然とするようになっていたということ。二番目は普通の女性が裸で雑誌のグラビアなどに登場してくるようになってしまっていたということ。三番目は付けたしみたいなようなものでしたが、日本のキュウリは長さも太さも同じになっていた。とこういうわけで、日本の社会目標はカネとセイだけ、という印象を持ったのです。この二つも大事なことですが、公然となり、含羞を失ったのが驚きでした。含羞、恥じらいなき無目的社会になってしまったと思いました。
 そこで新しい認識、ということでの「不寛容」なのですが、理由は様々あります。分かりやすいところでは、食の安全に関わっての最近の動向でしょうか。賞味期限とかいうものがキーワードになりました。食の安全に関わるニュースで新聞、テレビは大賑わいです。うんざりするほどで、記憶に残っているものだけでも、牛乳、ハム、肉、洋菓子、和菓子、チョコレート、そうそう中国産餃子もあります。むろん、こんな程度ではなく、丁寧に探していくとこの四、五倍はありそうな気がします。餃子では実害もありましたから食の安全は大事とは思いますし、賞味期限などは自業自得でもあるのでしょうが、少し過敏に過ぎる社会になってしまい、「不寛容」が全面に出てきてしまったかと思わざるを得ません。
 それも牛乳では倒産、洋菓子では身売りなど、その結果はかなり厳しく、そこまでする必要があったのかどうか、疑問でならないのですが、「不寛容」の勢いは止まりません。いささか皮肉れていたかもしれませんが、牛乳などは店頭から消えるまで買い続けましたし、結果的にではありましたが中部地区の和菓子などは賞味期限後二、三日しても全く平気で口にしていました。もちろん問題なし。あっても自己責任でしょう。
 むろん、だからと言ってどうでもいいということではないのでしょう。規則は守れてしかるべきなのですが、社会的な制裁の結果がどうにも過酷に過ぎないか、ということです。情状酌量というものがあっていいのではないか、ということです。少し脇にそれるところもありますが、昨年の中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所から放射性物質が全く問題のない極微量、外に漏れるということがありました。これも「漏れた」という事実が判断抜きに大きく報道されて、新潟産品が風評被害を受ける結果になっています。人体に全く影響がなくともこの結果です。新潟の人が怒って当然でした。
 そこで問題はどこにあるのか、ですが、これは社会の問題ではなく、報道の問題であるのかもしれません。そして社会が過敏に反応している。そうした面を否定できないと思えます。ということは自らに天に唾するところないわけでもないとなってきてしまいました。元新聞記者ですから同罪です。いわば報道と社会の相乗効果というべきでしょうか。
 いずれにしても「不寛容」な社会は息苦しいことは事実でしょう。ちょっとした過ちも許されないのでは、緊張感の高い社会となってきてしまい、逆に大問題が起きてしまう。そんな気がしてなりません。全てがひどい、無責任、危険となって判断することなく、感情的に反応していかざるを得ません。ほんの少しだけでゆったりしたいものです。
 モノシリ顔で書き綴ってしまいました。どうぞここはお許し、ご寛恕ください。 念をおしますが、食の安全がどうでもいいと言っているわけでは決してありません。

了  

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