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1996年4月号

自然環境保護と企業の使命

(財)地球産業文化研究所文化委員
日本原子力発電(株)取締役社長
阿比留 雄


 最近、地球環境時代に生きる企業は、もっと自然保護の問題にも積極的に取り組むべきだ、といった声をよく聞く。この点については、環境問題への取り組みが自然保護運動から発達した欧米諸国とは、歴史的な背景が異なり、わが国、特に、わが国の産業界にとっては、比較的馴染みの薄い分野であった、といった分析をなさる方もおられるようだ。

 確かに、元来私たち日本人は、こと自然を愛するという面 においては、決して、欧米の人々に後れをとるものではなかったはずだが、いつの間にか、環境問題といえばそれは産業環境を意味し、自然環境への関心が比較的薄くなっていたようにも思われる。しかし、地球規模での環境意識の高まりが叫ばれる中、これからは、わが国においても、政府、市民、企業が、それぞれの立場から「自然保護」の問題に真摯な取り組みを行っていく必要があるのではないだろうか。

 そうした中、経団連は1992年、自らが制定した地球環境憲章の理念、すなわち「産業界による自主的かつ積極的な取り組み」を実践に移す行動の一環として、「経団連自然保護基金」を設立した。わが国の産業界が、こうした形で自然保護運動に取り組むのは初めてのことであり、また、私自身も、その設立に携わった者の一人であるわけだが、既に同基金は、内外の環境NGOとの協力の輪を広げつつ、熱帯雨林の再生など自然保護のさまざまな分野において、国際的な実績を重ねつつある。

 今日、物質的な生活向上への飽くなき要望、そして一部に見られる経済成長最優先といった考え方が、地球自身が持つ自然摂理のバランスを崩しつつあると言われている。そうした時代にあって、まず企業の側から「自然保護」に取り組む、ということには重大な意義がある。これは、断じて「企業の範畴外のこと」などではない。なぜなら地球がバランスを崩していることを看過するということは、動植物に重大な悪影響を及ぼし、このことがめぐりめぐって、企業自身、産業社会はもちろん、人類全体、私たち企業人の子供達、そして孫たちの世代の生存をも脅かす結果 になるからである。

 例えば、土壌である。土壌には、本来、多様な機能が備わっているという。それは、ある時は土壌の養分そのものであり、またある時は、水はけや水持ちを適切に保つ土の構造であったりする。また、その中に生息する夥しい数の土壌微生物に注目する人は、土壌こそは、抗生物質の源であると断言して憚らない。

 それ故、ここで仮に私たちの世代が、ひとたび土壌を損なうようなことがあれば、このように複雑で、かつ多面 的・有機的な機能を持つ物質を人工的に合成するために、私たちの子孫の世代は、それこそ途方もなく莫大な費用と時間を要することにもなりかねない。

 今日、企業が地球市民としての自覚と責任を求められていることは、論を待たない。そうした中、われわれの世代で環境資源を使い切ることは、言うならば、孫のための貯金を、自分の代で使ってしまうようなものである。私たち企業人には、将来の生態系バランスを維持するための努力をする責任があり、単に産業公害防止のみに留まらず、「自然保護」そのものへの努力もまた、全ての企業行動に必要不可欠な事項であるべきだと思う。

 この点で米国などにおいては、自然保護に関心のない経営者は、経営者たる資格がないという風潮が一部にあるようだ。実際、経団連のミッションなどで、私たちが彼の国の国際環境NGOと会合を持った時にも、何々TVの社長といった肩書きを持つ、いわば米国を代表する企業の面 々が、日曜の朝にも拘らず出席し、遅くまで熱心に議論を交わしていた。彼等のこうした情熱が、ODAだけではカバーしきれない、国際協力の隙間を埋めていくのだ、と深く関心した次第であるが、ならば、そうした環境NGOを、わが国においても発掘・育成してゆくことが、わが国の産業界の役割ではないか、そうした議論を経て誕生したのが、先述の「経団連自然保護基金」なのである。

 口の悪い人は、キリスト教的な精神風土のない日本では、「NGOによるボランタリーなイニシアティブ」など根づかない、などとよく言われる。しかし、古事記や日本書記をひもとくまでもなく、昔から日本人は季節のうつろいに敏感であり、とりわけ身近な自然を愛でる心においては、決して人後に落ちない民族であったはずである。その意味において、「自然保護」を志す企業人は、あまり難しいことは考えずに、人間も自然界の存在の一つとして生きとし生けるもの全てと共生しているのだという、わが国古来の教えに立ち返るときがあってもいいのかもしれない。

 もちろん、その一方では、私たち自身が原始の昔に戻ることができない以上、自然のwise use, すなわち、持続可能な形での自然の利用という今日的考え方をも、併せ持つ必要があることは、いうまでもないことである。

いずれにせよ、こうした自然保護のあり方を考えるということは、「子や孫が豊かに生きられるようにする」という、企業経営の基本を考えることに他ならず、時として人生観そのものを考える絶好の機会でさえあると思う。

 その意味において、私自身、自然保護の問題に出会え、本当によかったと思っている次第である。