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1996年6月号

ジャパンヴィジョン第二部レポート「日本外交の改革」

1. 戦後外交を振り返る

 吉田茂の選択

 戦後日本の外交を、今日に至るまで最も深く規定し続けている文書を三つ挙げれば、それは日本国憲法、サンフランシスコ講和条約、そして日米安全保障条約であろう。吉田はこの三つの文書のすべてに、深く関与した。(2)

 1946年2月、GHQが憲法草案を幣原内閣に示した時、吉田は外務大臣だった。吉田を含む大部分の閣僚は、東京裁判(同年5月開廷)から天皇を守り、天皇制を維持するためには、草案中の戦争放棄の条項を受け入れ、徹底した平和主義の姿勢を示すしかないと考えた。その後の帝国議会と枢密院においては、吉田は首相として憲法審議にのぞんだ。この年は食料危機の年であり、占領軍の積極的な強力なしには、かなりの数の餓死者が出ると考えられていた。こうした事情を背景に、吉田は憲法の擁護者として行動したのである。

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した時、吉田は再び内閣を率いていた。アメリカが日本に再軍備を要求したのに対し、吉田は、その経済的負担の大きさと国民の反対を理由に粘り強く抵抗し、8万人の警察予備隊でこの要求をしのいだ。吉田はまた、本格的な再軍備によって日本が朝鮮戦争に巻き込まれる可能性を恐れ、旧軍勢力の復活を招く可能性を恐れていた。

 翌1951年9月、吉田は全面 講和論を退け、アメリカを中心とする諸国と講和条約を選んだ。この時ソ連は、外国軍隊の日本駐留の禁止、対馬・津軽・宗谷・根室4海峡の非武装化、周辺国以外の軍艦の4海峡通 行禁止などを要求していた。つまりソ連は日本からアメリカの軍事力を排除しようとしていたのであり、アメリカがこれに同意する可能性はなかった。アメリカとの緊密な関係によって日本の復興を進めようとしていた吉田が、全面 講和論を拒んだのは当然だった。

 講和条約と同時に、吉田は日米安全保障条約を結んだ。核兵器の取材に、一国だけで安全を維持するよりも、アメリカと提携して安全を守る方が容易であり安価であることを吉田は確信していた。独立後にも米軍が駐留するという案は、片山内閣の芦田均外務大臣のメモ(1947年夏)などにも見られるが、吉田はこの案を積極的にアメリカに提示して、アメリカの再軍備要求をかわし、日米安全保障条約を結んだのである。

 吉田にとって最大の関心は日本の早期復興だった。そのために吉田は軍備を抑制し、経済活動に全力を投入すべきだと考え、とくに貿易と外資導入を重視した。その頃、日本に市場を提供してくれる国も、資本を投下してくれる国も、アメリカ以外にはありえなかった。反共リベラリズムの思想を別 にしても、吉田にとってアメリカと密着することは当然だった。

 以上の吉田の方針を示すエピソードを二つ挙げておきたい。第一に、吉田が初代駐米大使に選んだのは東京電力の新木栄吉であった。米資導入によるインフラ整備を重視していたからである。また吉田は、米英に対する戦前の債務の弁済に積極的な姿勢を示し、1952年夏の国際会議を前に、イングランド銀行などに預け入れを行っている。米英との金融面 での信頼関係の回復こそ、日本の国際社会へ復帰する第一歩であると考えたのである。金は返せばまた貸してくれる、外交と金融の起訴は信用(クレディット)であるというのが、吉田の持論だった。

 吉田路線の残したもの

 ところで、こうした吉田路線は、しばしば向米一辺倒として批判を浴びた。反吉田の政治家たちと吉田以後の歴代内閣は、いずれもこれを修正しようと試みた。鳩山内閣(1954−56)は、ソ連との国交回復を実現し、短命に終わった石橋内閣(1956−57)は、中国との関係改善に熱意を持った。また、岸内閣(1957−60)は、国連中心主義を唱え、アジアとの関係改善に力を入れた。しかし岸内閣は、結局、保安条約の不平等性の是正によって、日米関係を強化するすることに最大の力を注ぐこととなった。そして池田内閣(1960−64)はアメリカとの経済関係に力を入れ、佐藤内閣(1964−72)は沖縄返還に力を注ぎ、事実として日本の外交は対米基軸で展開されたのである。

 吉田自身は、すでに1962年頃から、池田の経済中心主義の行き過ぎに不満であった。吉田において、経済中心主義は何よりも戦後復興のためのものであった。日本がもっと自力で安全保障を実現し、自由陣営のために役割を果 たすべきだと、吉田は信じたのである。その夢を吉田は佐藤に託したのであるが、佐藤もやはり池田と同じ路線を歩んだのである。

 1970年代末期から、ソ連の世界的な膨張と極東軍備の増強という事態が生じ、これに対応して大平内閣(1978−80)および中曾根内閣(1982−87)は、アメリカとの軍事強力関係を強化した。西側の一員という言葉はすっかり定着した。しかし、日本がソ連の東に位 置するという事実から、日本は自国の防衛に力を入れるだけで、西側の一員として責任を果 たすことが出来た。

 この構造は、冷戦の終焉とともに終わった。西側諸国内部での対立が顕在化するとともに、世界におけるその他の問題に対し、豊かで自由なG7諸国の一員として何をなすべきかが、大きな課題として浮上することとなった。こうした課題は、もちろんそれ以前から存在していた。日本の政府開発援助は、かなりの歴史を持ち、金額では世界の1、2を争うところまで来ていた。しかし経済発展の土台である安全保障の維持については、ほとんど経験がなかった。

 この状況を直撃したのが、湾岸戦争だった。日本の外において、世界の安全の維持のために役割を果 たさなければならない事態に日本は直面し、大きな困難を味わったのである。その後日本は、1992年に国連平和協力法を成立させ、その翌年にかけてUNTACに自衛隊を派遣して、カンボジア和平に貢献することが出来た。しかし、世界が在来型PKOをこえるさまざまな和平の試みをしている中で、日本は1993年以来、足踏み状態にいると言ってよいだろう。

 以上のように、吉田が選択した対米基軸、経済重視の路線は、あまりに成功したがゆえに、深く日本外交の中に根を下ろしてしまった。当初はプラグマティックな選択だったものが、いつしかドグマとなったと言ってもよい。自由陣営のために責任を果 たすという、世界を視野に入れた吉田の本来の理想は、いつしか忘れられていったのである。

 その一方で、日本の経済力には蔭りが見えている、かつては経済力による国際貢献を唱える人が多かったが、いまや日本の財政はOECD諸国の中で最悪の状況にある。日本の外交を過去の惰性から断ち切り、大胆な転換を行うことは、緊急の課題となっているのである。


  1. 戦後外交の形成者としての吉田茂については、北岡「吉田茂における戦前と戦後」(近代日本研究会編『年報近代日本研究16・戦後外交の形成』、1994年、山川出版社、所収)、およびShin'ichi Kitaoka, "Yoshida Shigeru's Choices," in ACTA ASIATICA: Bulletin of the Institute of Eastern Culture, 1996 (forthcoming). を参照されたい。

 

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