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1996年11月号

常温・常圧への回帰

東ソー株式会社 常務取締役
堀田 俊彦


 化学工業は、地球環境問題と特に密接なつながりがある産業の一つ、と言わなければならないだろう。地球環境に関する多くの問題を解決するには、化学の貢献が大いに期待されているところだが、他方、その化学が問題を引き起こす元凶とみなされることもある。難民に安全な飲み水を確保したり、地球上の食料生産を増進するにも化学物質が役に立つし、もっと身近なところで、病気を治癒して健康を維持するためには、医薬品のお世話になる。その反面 、ある種の化学物質がオゾン層を破壊するおそれがあるとか、大気、水、土壌を汚染し、生態系に悪影響を及ぼすとも言われる。極端な例として、まだ記憶に新しいサリンガスのような毒ガスも化学の産物である。そうしてみると、化学工業は、あたかも二つの顔を持つ、うす気味の悪い存在のように見えてくる。しかし、化学が、かりに局部的であるにせよこのような二面 性をもつとして、そのことだけが問題であるならば、これを解決するのは、それほど困難とは思えない。科学的な判断に基づいて、地球環境から排除すべき化学物質を特定してゆけば良いからである。

 化学工業と環境の関係について、化学企業自身が余り気に留めていないように思われるのが、化学物質の製造プロセスによる環境への負荷、エネルギー消費の問題である。化学が本領を発揮するのは、自然界に存在する物質を取り出して、これらを組み合わせ、新しい物質を創り出すところにあるが、その手段として、熱を加えたり、圧力をかけたりすることにより、自然の環境とは異なる状況を作り出す。それが、技術の進歩に伴うごく自然ななりゆきとして、より高い温度、高い圧力という条件の下で、一層高度の物質を作り出すようになった。例えば、窒素を空気から分離して、アンモニアを合成する技術「ハーバー・ボッシュ法」は、化学史上画期的な発明であったが、これを可能にしたのは、500度、300気圧の「高温・高圧」をかける技術であった。

 人間の社会では、しばしば起こることだが、一旦方向が定まり流れができると、慣性が働き、その流れは止まらなくなり、時には、さらに加速していく。そうなってしまうと、勢いのついた大型船と同じように、これを減速したり、まして方向を転換するのは難しい。しかし、そうかといって盲目的にただその方向に突き進むばかりかと言うと、そうでもなくて、あたかも自律的な作用であるかのようにベクトルの反対方向に働く力が生ずる。地球資源が浪費されているという事態になると、「スモール・イズ・ビューティフル」と唱える声があって、見直しの動きが生まれ、バブルによる資産価値の増大に浮かれていると、「清貧」の美徳が説かれて、熱も少しは冷める。

 先に述べたように、化学の製造プロセスの発展過程にも、高温・高圧の方向に向かう流れがある。化学史が示すように、近代欧米化学技術は、大量 のエネルギーを投入して、高温・高圧の条件を作り出し、その力でいわば自然をねじ伏せるようにして、効率的な大量 生産のシステムを作り上げてきた。まさに「より早く、より高く、より強く」というオリンピック憲章をそのまま適用したような展開であった。この流れは、短期間に発生した激流ではなくて、長い時間を経て観察されるゆったりとした流れではあるが、その支配力は、根強いものがあると見なければならない。

 そこで、エネルギー多消費の「高温・高圧による力のプロセス」の流れとは反対の方向に、もっと注目してみることが有効ではないかと考えられるのである。常温・常圧、またはこれに近い環境での製造プロセスを「温和な製造プロセス」と呼ぶことにしよう。もちろん、現在の化学工業は、多様な製造プロセスを駆使しており、高温・高圧のプロセスに加えて、ここでいう温和なプロセスも重要な役割を果 たしている。また、高温・高圧のプロセスであっても、省エネルギーの努力が払われている。ここで強調したいのは、製造工程の選択に当たって、発想の順位 を転換してみることであって、製造工程の全てを「温和なもの」に切り替えようということではない。

 化学反応を促進したり、逆に遅くすることもできる触媒は、古くから利用されており、新しいプロセスではないが、常温・常圧の環境で魔術を行う触媒は、最も魅力的だ。また、酵素は、いわば生体内の化学変化の触媒であるが、酵素をもっと広範囲に利用できないのだろうか。微生物も見逃せない。高温・高圧のアンモニア合成について前述したが、あるバクテリアは、酵素を使って空気中の窒素をアンモニアに変えるとのことである。自然界にある「常温・常圧の化学」を何とか工業的に再現できないものだろうか。

 日本の化学工業は、一橋大学の伊丹先生に「遅れてきた男たち」と命名された(「日本の化学産業、なぜ国際的に立ち後れたのか」NTT出版)。スタートに後れただけでなく、その後のキャッチアップも十分とはいえない。化学工業の分野では、世界的にも、このところ画期的な技術革新が見当たらず、このあたりで、パラダイム・チェンジともいうべき技術革新が望まれているところだ。この革新が、欧米化学工業の歴史の流れに沿ったエネルギー多消費、高温・高圧の伝統的な体系からではなく、常温・常圧の温和な体系の中から生まれてはこないだろうか。もし、日本の企業がこれを実現することになれば、日本の化学産業が「先に立つ男」になることもありうるのである。