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1998年5月号

OPINION

落ち込む必要のない日本

前マラヤ大学経済経営学部教授
リー・ポー・ピン

 いま日本はかなり落ち込んだ状態にある。人々はいろいろな不安をもっており、社会的レベルでは日本の人口の高齢化が行き着くところはとか、悪魔的なカルト集団や低年齢犯罪者による凶悪犯罪が招来する社会秩序への脅威とかへの懸念である。経済的レベルでは産業の「空洞化」への心配や、金融機関立ち直りの困難さへの懸念がある。そして政府レベルでは、 かつてあれほど褒めそやされた官僚制度が、実は腐敗していたことが明るみにでたし、その一方で日本の政治家は、今まさに国がそのリーダーシップを求めているときにもかかわらず、不毛な内部議論を続けている。

 国際舞台では、多くの日本人が、その経済的地位 と変化している時代にふさわしい国際的役割をいまだに果たしていないと信じている。日本人はますます隅に追いやられてしまうことを恐れている。こういった感傷を最も的確に表現しているのが、アメリカが今はもう日本をバッシング(非難)するよりもパッシング(パス)しているというコメントである。

 このようなペシミズム(悲観主義)を、日本の高い輸出競争力と円高から、21世紀の超大国になるだろうと多くの人が見ていた10年程前と比較してみよう。

 日本も、たいていの国と同じようにムードの波がある。しかし、現在の落ち込み様は極端に振れすぎている。日本研究のスペシャリストでないことからすると、私が日本の国内事情について書くのは、足場の危険な場所へ立ち入るようなものだろう。それにしても、私の考えでは現在の問題の多くが、冷戦の終結、この終結が多くの他の先進資本主義国にも政治的方向性を見失わせたわけだが、この冷戦の終結とそれからバブル経済の崩壊によってもたらされたものである。したがって、日本は、共産主義の脅威により縛られることのなくなった社会を統治する、新しいそして安定した政治秩序をいまだに模索している他の西側諸国と違っているわけではない。それに高齢化社会の問題を抱えている国は多く(このなかには中国のような発展途上国も含まれるが)、この問題を解決する力からすると、日本ほど高い国があるわけではない。もちろん日本は容易には克服できないような金融システムの問題を抱えているわけだが、その産業構造はまだまだ素晴らしいものをもっている。実際、一夜にして円の価値が2倍近くに跳ね上がったのに順応した日本の産業界のやり方は、大戦後の経済史の上で最も驚異的話の一つに違いない。そしてこの産業界こそ、日本が将来的にも恐るべき経済パワーとして存在しつづけることを確実にするであろう。

 しかし国際舞台で言えば、隅に追いやられた日本などという話しは、少なくとも東南アジアの立場からすると、ばかばかしいとまでいわないまでもあまりにも極端である。日本の過去(そしてこれは直視されなければならないことだが)がアジアとの関係を複雑なものにしているのは疑問の余地がない。また日本は中国のような新興勢力と影響力を競わなければならないのも確かである。それにもかかわらず、日本はいまだに、東南アジアにおいて重要な役割をもつ大変大きな存在である。

 第一に、日本は非常に重要な経済力をまだ保持している。現在の経済的困難にもかかわらず、日本は、直接投資・間接投資両面 で東南アジアへ巨額の資本を大盤ぶるまいできるアジアで唯一の国である。購買力平価では、中国が日本の経済規模に匹敵あるいは超えるかもしれない。しかしその強大な市場を別 にすれば、(そしてもちろん元の現在の地位が保たれるとしても)中国の東南アジアへの経済的影響力は、日本とは比べものにならない。中国自身が巨額の外国資本の投資を必要しているのだ。そのうえ中国は、日本のもっている先進技術、その移転が東南アジアの工業化にとって大きな力となるような技術を保有しているわけではない。

 第二に、日本は国際舞台でアジアを代表するのにふさわしい地位 にある。国連安全保障理事会の(常任)理事国ではないが、世界銀行、国際通 貨基金(IMF)、G7グループなどの力のある国際機関の重要なメンバーである。

 IMFのような組織は国際舞台で大きな役割を果 たすことが多くなってきている。このことは、現在のアジアの通貨危機にも見ることができる。世界銀行やIMFに対するアジアで唯一の大口出資者であって、アジア唯一のG−7メンバーである日本は、そういった場でアジアの利害をはっきりと代弁できるユニークなポジションにある。

 そして最後に、この第二の点にも関係することだが、日本はアジアにおける国際的な外交の舞台に「アジア的」なやり方を持ち込むことができる。「アジア的」という言葉を私は用心深く使ったが、これは現在の危機の中で「アジア的」価値が信用を失っている(これは間違いだと私は信じているが)からばかりでなく、「アジア的」スタイルというものが実際のところ実態のないものであるからでもある。

 結局は、日本も他のアジア諸国のように西側諸国の力の現実に直面しているのだ。要するに、日本は、コンセンサス志向の社会という特徴や国際舞台で固定観念をもたないところから、自身の信念を通 すというよりも他の国と相談する傾向が強いということである。このようなことはアセアンとの関係にもみられる。多くの日本の提唱事項はアセアンと協議した後ではじめて出てくる。このような「根回し」は、ものごとをやり遂げることにはつながらないことがしばしばかもしれない。しかし、関係する参加国の感受性を探るには有効なものだ。そういった事前協議には「アジア的」なものは何もないという議論もあるだろう。それはそれで正しいかも知れない。しかし、アジア的であろうとなかろうと、日本人がIMF総裁のミッチェル・カンダーサスの立場にあったら、インドネシアのスハルト大統領がIMFとの協定にサインするのに立ち会っても腕を組んでいるようなことはしないだろう!これは日本人にはよく理解できるはずで、このようなシーンは敗戦に打ちひしがれた日本の代表者が東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号上で降伏文書に署名するのをみていたマッカーサー提督の姿をほうふつとさせるものだ。