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1994年7月号

中国人密航事件と国際人口移動

東京大学教養学部教授
山内昌之


 中国人の集団密航事件がしきりと話題になっている。5月末現在、警察庁と海上保安庁の検挙分を合わせると10件367人にも上るという。これは、昨年全体の倍以上にもなる。5月に福岡市内の倉庫に136人もの多数が潜伏していたことは世人を驚かせた。この密航の背後には、「蛇頭」(スネークヘッド)という地下請負組織が送り出し国と受け入れ国の双方にいるが、最近の捜査では香港に拠点をおくマフィアが密航に関与していることもわかった。3月に和歌山県で中国人密航犯の89人の隠匿容疑で逮捕された17人のうち、数人は香港の「14K」という団体だという。これは、8万人以上もの「黒社会」(ヤクザ)の勢力を誇る「三合会」に属しており、「14K」だけで3万人の構成員がいるらしい(『読売新聞』1994年5月28日朝刊)。

 福岡の事件では、密航費用が一人150万から220万円であり、総額約3億円を稼ぐ算段だったようである。日本の豊かさに魅せられて大金を投入する側にも問題があるが、無寧の民を塗炭の借金地獄に落としこんだり、在日の就学生にまで犯罪の手引きをさせる密航シンジケートのやり口は人道的にも到底許されるものではない。しかし、密航の8割は成功しているという説もあり(『読売新聞』5月27日朝刊)、日本にはすでに25,000人もの中国人不法滞在者がいるともいわれる。

 しかし問題は、この中国人の大量 密航がインドネシア人の船員の操縦する船で運ばれるなど東アジアから東南アジアにかけてボーダーレス化しており、世紀末の国際的な安全保障を脅かす要因として急浮上してきていることだろう。密航は毎年35億ドルもの利益をあげており、麻薬密輸に代わる地下ビジネスにまで「成長」している。しかも、日本人の暴力団はいうに及ばず、ロシア、中東、ヨーロッパ、北米の地下組織とも結びつくという不気味さである。一説では、30か国以上のグローバル・ネットワークをつくりあげたともいわれている。

 この密航シンジケートは長いことアメリカを主なターゲットにしてきた。昨年夏に数千人の密航者の到着に驚いたクリントン大統領は、それを国家安全保障への脅威と見なすと公言した。それ以来、中国人密航問題は国家安全保障会議の関心の一つにさえなったのである。それでもアメリカへの密航は手口やルートを巧妙に変えて続いている。CIAの議会証言では、毎年10万人の中国人がアメリカに密航しているというから日本とは桁が三つも違う。最近のルートとしては、まずベリーズ、グアテマラ、ドミニカ、メキシコなどのカリブ中米諸国を経由してくるしが普通 だという。

 東南アジアへの中国人密航者の流入は、現在社会の反華人感情をすでに刺激しつつある。インドネシアの出入国管理局長は中国人の密航を国家安全保障を脅かすものだ、とアメリカと同じ論調で語っている。タイの場合は事情が少し複雑である。タイは、いずれかの第三国に密航者が出かけるための「トランジット・センター」になっているというのである。常時10万人ほどの中国人が潜伏して目的国に出かける順番やタイミングを見計らっているらしい。

 この密航規模の大きさを見ていると、中国政府がその取り締りに熱心でない印象も受ける。あるいは、農村部から都市部への人工移動つまり「民工盲流」「民工潮」などを生み出す人工過剰、不完全雇用、経済特区への憧憬などをかわす安全弁として黙認しているのだろうか。

 中国政府は密航が国際問題だとしているが、とくに地方の官僚のなかに密航ビジネスと関係している者がいることは否定できない。何にせよ、この密航現象は当面 容易に終わりを告げそうにもない。ポストとう時代の政治的不安定、中央による統制の破綻、共産党内にはびこる汚職と腐敗などは、いずれも大量 密航を促す要因に他ならない。

 また、つい最近私も書いたばかりだが(山内昌之『民族の時代…混沌と調和の新世紀』PHP研究所を参照)、「盲流」の増大による不安定は中国にとって最大の社会問題になるだろう。農村を離れた「民工盲流」の数は1億人にさえなったという観測がある。そして、毎年1300万ずつ増えているというのである。(『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』1994年5月26日)。

 この数字の真偽はここでは問わない。問題は、かれらが国内の豊かな地域で然るべき仕事を見つけられなければ、すぐに国外に出たがるということである。これは確実に中国と近隣諸国との外交通 商関係を悪化させるだろう。不法な国際人工移動の危機を未然に防ぐことができるのは、中国政府の意志であり、熱意だけである。