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1994年7月号

第9回地球規模の問題を考える懇談会から


東京情報大学助教授
関 満博


【中国との関係での日本産業の現状】

 両親は大陸生活が長く、私に対して、将来大人になったら、大陸で仕事をするような人になりなさい、と言っていました。

 大学院卒業の後、東京都の商工指導所で、都内の中小企業を中心とする経営指導、或は工業団地の計画作りなどに携わっておりました。面 白い仕事でしたが、東京都にいる限り、都内以外の仕事は十分できません。有給休暇を全て大陸に充てていましたが飽き足りなくなり、今の大学に移ったという訳です。

 そもそも、私は日本産業論の専門家ですが、いつの間にか中国問題に向かうようになってしまいました。研究をすればするほど、中国の存在感の大きさを感じていまして、中国問題は中国問題に留まらない、中国問題は日本問題につながる、と受け止めるようになりました。

 日本企業は特に1980年代に入ってから、海外展開が目立つようになりました。1980年代の海外展開、とりわけ東アジア展開は日本の労働力不足、人件費の高騰の結果 生じたものです。初めは、韓国、台湾から、人件費上昇につれ、南に展開していきました。本命は確実に中国と多くの人が思っていたのですが、諸般 の事情があってストレートに中国に入れなかったのでしょう。

 ところが1990年を過ぎると、日本企業の対中進出が急激に増え始めました。

 中国の改革・開放政策は1979年に始まりました。この時から、1991年までの間の日系企業の対中進出数の累計と1992年の一年間が大体同数です。更に、1993年には1992年の2倍位 のボリュームになりました。この間、全体では2倍ですが、私が現在特に本腰を入れている上海から南京にかけてのゾーンは4倍です。1994年は1993年より日本企業の対中進出が更に増えるだろう、と思います。

 対中経験が長くなるにつれ、多くの人が中国は他の東アジアの発展途上国とは根本的に異なる、ということを理解し始めています。

 第一に、従来型の安くて豊富な労働力がある国で、東アジアの延長にして最後の着地点と思われることです。

 第二に、市場としての中国が次第に見えてきた、ということです。

 第三に、日本が失いつつある3K的色合いの濃い基盤的技術についての最後の着地点というイメージが強まってきています。単に、安くて豊富な労働力というだけではなく、鋳鍛造、大物の機械加工、或は大物の製缶 等、日本が次第に失いつつある領域について、東アジアの中で最後に頼れるのは中国だ、ということです。

 第四に、中国の人材の厚みです。

 今日、お話するのは時間の関係から、主に第二、第三の局面 についてです。

 まず、第二の局面 です。私は以前東北のある県庁に呼ばれました。ある町を見て欲しい、と云うのです。その町は東北でも有数なある電子部品メーカーの企業城下町です。

 私が訪問したのはA社で、その事業部の責任者とお話しました。彼はこう云ったのです。「当社は今まで、ドルショック、オイルショック、円高といろいろな国際経済調整を受けてきました。その度に、この工場が国内の最後の拠点で、この後は海外に進出せざるを得ないといことで、拠点となるこの工場は徹底的に合理化・省力化し、ローコスト化に成功しました。しかも製品は非常に小さく、輸送費は輸出を考えても問題になりません。ところが、ユーザー(中国)はこちらに進出せよ、そうでなければ買わない」と云うのです。

 電子部品メーカーは、大体地元の有力者を協力工場として組織する場合が多いのです。設備は概ね本体の会社が貸与しますが、地元の人は土地と建物を用意し労働力を確保し、預かった機械で供給される部品を加工していまそた。

 とにかく、A社は中国に行かざるを得ないので、東北地方の町に貸与した設備を期限をきって引き揚げる、と通 告しました。3000人程の雇用が失われるのです。

 今度は、その工場の協力工場も回ってみました。この窮状に、彼らが親工場から得た回答は「一緒に来るなら仕事を出す」だそうです。

 特に昨年の8月位 から、電器、電子メーカーのほとんどの日本企業が対中進出を発表しています。私の見るところ今年の夏から中国の工場が立ち上がる場合が多く、それらが順調に稼動する時期から、国内の拠点が整理されていきますと、一斉にわが国の地方圏の雇用調整が始まる懸念があります。

 では何故こんなことになったのかと云えば、中国が巨大な市場だからです。

 私は中国の改革・開放政策の開放という言葉には非常に限定的な意味があると思います。中国は強烈な国産化政策を持っています。国内市場は開放しないのです。要するに、開放というのは市場の開放ではなく、外国企業が進出して製品を造って輸出することについて開放しよう、ということです。

 1979年以来、中国は3回程の消費ブームを経験しています。第一期は1980年代前半、この時の三種の神器に相当するのが、自転車、腕時計、ラジオ、扇風機です。第二期は1980年代後半、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が売れました。ちなみに、中国テレビの生産台数は世界一になっています。第三期は1990年代前半です。ブーム商品はエアコン、電子レンジ、VTR、オートバイ、軽自動車です。

 日本のある家電メーカーが上海でエアコンを造っていますが、昨年は立ち上りで6万台、今年は3月末時点で年間目標20万台の受注がとれたそうです。

 オートバイは上海あたりでは規制があって、あまり見られませんが、無錫あたりの農村では無数のオートバイが走っています。

 このようにわずか10数年の間に、強烈な消費ブームを経験した中国の人々の消費に対する要求水準は非常にレベルが上がったように思われます。例えば、今の若い人達はソニーのウオークマンとか東芝の冷蔵庫が欲しいとはっきり云います。中国の人々の使うものや身につけるものが良くなれば、労働者の品質意識も変わっていきます。このことが、先程述べた市場の開放につながっていくように思います。

 私は今までの日系企業の進出の仕方は「輸出組立型」だったと思っています。加工はなく、大量 の労働力を集めて加工された部品を投入し組み立てて輸出する、という構造です。当然港湾条件の良いところということで、大連周辺、上海周辺、深周辺、香港周辺にならざるを得なかったのです。

 こうしたことは日系企業のみに限られる訳ではなく、外資は沿海部に集中することになりました。一人当りのGNPを見ると、上海と内陸の一部の省の間には7倍以上の差がある、と云われています。沿海部だけが発展して、内陸は置き去りにされる様相が強まってくるように思われます。

 そこで、内陸の都市はオートバイ或は次世代製品を造る日のメーカーに、一本釣りをかけているという感じです。中央政府は云わないのですが、内陸都市政府は日本のメーカーに、中国国内に売ってもいい、と持ちかけているようです。

 中央政府は外貨不足で外貨管理を厳しくしている状況のため、消費財を外国から買う訳にはいかない、という姿勢です。従って、個々に進出した企業は自社で外貨バランスを取らなければなりません。ところが、もし外資企業が製品を国内で販売し、外貨にして持ち出したいとしますと、最近の内陸の主要都市は「我が市は全体として外貨バランスが取れており、貴社の持ち帰り外貨について全額保証しましょう」と云っています。その結果 、日本企業の内陸への進出の兆しが見えるようになりました。国内を対象にするなら、別 に沿海部である必要はなく、国内デリバリーのよい拠点に出た方が良いという判断が生まれるでしょう。

 第三の局面 は基盤的技術に関わる問題です。

 1989年9月、私は大連の投資環境調査団の一員に加わりました。私の仕事は将来日本企業と合弁を組むであろう現地企業の診断を行うことでした。大体3週間の日程の半ばという頃、大連第二モーター工場を訪ねました。この工場は従業員は約2000人の国有企業で、中型モーター専業のメーカーです。中国のメーカーは日本と異なり、設計・鋳物・機械加工・プレス・巻線・組立・塗装・検査のプロセスを一貫して行います。

 私は事前に機械加工場とプレス場を見たい、と要望しておきました。見て、本当に驚きました。設備体制、労働者のフットワーク、整理整頓状況、これらはまさに日本の中小企業と同でした。

 見学の後、工場長に話を伺ったところ、この工場は1984年までは全国同業30社中下から2位 だった、というのです。ところが、1989年9月時点では、断トツのトップです。因みに、1984年というのは遼東半島、大連等北部地域が開放された年です。

 この理由を聞きますと、大連が開放された1984年、この工場が日本側予算で日本企業の診断を受ける機会を得たのでした。この診断はY社によって行われ、F社に引き継がれました。F社はまず鋳物の技術改造から指導を行いました。今、大連第二モーター工場は鋳物に関してF社の要求水準を満たし、F社と鋳物の委託加工契約を結び、日本に輸出するようになっています。

 これはどういうことか、私の頭の中によぎるものがありました。1970年代半ばから、私は京浜地区の5000社位 の企業を診断しています。ということで、京浜地区の隅から隅まで分かっているつもりですが、1980年代半ばから困った現象が起きているのです。特に3K的色合いの強い加工部門、つまり、鋳鍛造、鍍金、大物機械加工、大物製缶 といった業種が次々に廃業していくのです。

 1986〜1987年、私は全国のこういった大物の鋳鍛造、機械加工のできる地域を調査しました。すると、京浜地区と4〜5年の時間差はあるものの、基本的構造は変わらない、ということが分かりました。

 その結果 がF社と大連第二モーター工場との委託加工契約につながったのでしょう。要するに、日本国内では長期にわたって、国内メーカーから素形材の安定供給を期待するのは難しいということです。素形材の供給を20〜30年のスパンで考えると、韓国、台湾、香港も無理で、期待できるのは中国の瀋陽から大連に至るゾーン、或は上海、南京、無錫のゾーンという限られた地域しかないのです。

 このように、素形材、鋳鍛造、大型の機械加工等の産業がアジアとりわけ中国にシフトする中で、日本国内はどうなるのでしょうか。私は大勢として東アジアに量 的依存をせざるを得ないと思います。

 産業と技術のネットワークを深めていくことが、東アジアの安定と繁栄につながっていくのです。そのために、我々はいろいろな努力をすべきだ、と思います。中国は謂わばブラックホールのように基盤的技術を吸い込んでいますが、ある一定のところで歯止めをかける必要があります。これがマニファクチャーリング・ミニマムという概念です。

 このミニマムのラインがどこなのか、まだ私自身にも見えませんが、恐らくどの国も持たなければならないものでしょう。

 自立的な物造り、発展力、構想力、創造力を維持していくためには、各国の独自のマニファクチャーリング・ミニマムを形成していくことが必要でしょう。

 このミニマムのレベルは、そのコストを誰がどうやって負担するかという問題があるにせよ、経済条件を無視してでも維持しなければならない部分があります。素形材、鋳鍛造、大型の機械加工等の産業の技術が全てわが国から失われるのは危険です。日本の物作りも終わりと云ってもいいでしょう。

 母機械の原則という原則があります。例えば、100分の1mmの機械なら、それ以上の精度は出ません。では、1000分の1mmや10000分の1mmを出すのはどうするかといいますと、長い修行を積み重ねた熟練工が行うのです。京浜地区にはこうした技術集積があり、もしこの人々がいなくなればロケットをまっすぐ飛ばすこともできなくなります。市場原理だけに任せておけば絶対に後継者は無くなるのです。

 既に、日本のメーカーさんはプロセスの仕分けをしています。例えば、鋳鍛造は中国依存、鍍金や精密加工は内部化といった具合いです。

 第三の局面 、人材の厚みについても簡単にふれておきましょう。

 アジアで一番ノーベル賞受賞者が多いのは北京の清華大学です。

 中国の科学技術委員会は「わが国は科学技術は割に進んでいるが、それが産業化されていない」と云っています。

 但し、軍事に関わる技術は結構高いのではないでしょうか。ロケット、レーザー、航空技術等が優れています。中国には500人規模のレーザー専門の研究所が5か所あるそうです。

 日本には系統的に報道されていませんが、北京にはシリコンバレーがあります。何故、日本の企業にアナウンスしないのかと聞きましたら、国内の科学技術を如何に産業化するかという国内問題だ、という回答でした。

 ある時、瀋陽の東北大学の調査に行きました。大学の研究棟には日本企業との合弁企業がありました。ワークステーションを前に50人程が仕事をしていました。そこの日本人の監督者に伺ったところ、彼らは東北大の現役の助教授で、1週間位 日本語を勉強しただけで、日本の本社から送られてくるスペックを読みこなしてしまう、と云うのです。

 中国の人材の厚みは相当なものです。それが市場経済の流れにいなかったと云うに過ぎません。不思議なことに、日本の企業はこの事実を冷静に見ようとしていない点はいささか気がかりです。