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2001年 3号

OPINION

文化財研究から文化遺産学へ
―ボーダーレス化と多様化による既存学問体系の融合と
 新たなる知の体系構築に向けての新方法論―


上智大学アンコール遺跡国際調査団長・上智大学教授

石澤 良昭


 これまで遺跡などの有形文化財(Cultural Properties以下文化財)研究とそ の実務は、大まかにいえば建築学と考古学が中心で、それに保存科学が加わり推進さ れてきた。それはある意味で「文化財」という特殊ボーダー内の仲間同士が文化財の 保護と研究を行なってきた。身内同士の体制であるが故に旧石器遺跡捏造問題が見過ごされてきたかもしれない。しかし、実際に建築学・考古学などの分野だけでは貫徹 できない問題が現在多く生じている。文化財を取り巻く周辺で、自然・環境・民族・ 観光・地域社会発展などの諸問題が噴出してきている。それらを直視して文化財との 関連で取り組むとしたら、どのように拓いていかなければならないであろうか。そのために思いつくことは、これまでの文化財の研究調査と実施に、社会科学系の諸学( 社会学・文化経済学・観光学・政治学など)および自然科学系の諸学(環境公害学・ 生態学・地形学・地質学・動、植物学・森林学・水利学など)を加えた新しい総合科 学的な視座で再検討する必要がある。すでに文化財の研究と実施の分野において学問のボーダーレス化が求められはじめている。

 アンコール遺跡の現場から申し上げれば、文化財の現場では盗掘もあり、遺跡 警察が必要である。さらに環境考古学、遺跡地質学、社会文化発展論、文化政策学、 地域文化戦略論、文化生態学など新学問が組み立てられつつある。つまり現実に文化 財の保存と修復と研究には、これまでの建築学や考古学が個別になし得る範囲を越えている事実がすでに指摘されており、従来の文化財研究の枠組みでは対応できず、新 しく組み替え、新分野の学問を加え、対応できる新しい方法論および具体的実務を組み立てていくことが急務となっている。

 それは文化財研究のボーダーレス化であり、多様化であり、大きくいえば従来 の、人文、社会、自然の3学問分野を融合し、新たな「知」に向けて再編成し、ここ に学問のボーダーレス化と多様性によって触発された広い意味の「文化遺産学」が成 立する可能性を生み、試行錯誤を伴いながらも新たな理論構築が積み上げられていくことになるだろう。

 そして科学技術の爆発的な発展に伴って、研究者同士が既存の諸ディシプリンに危機感を感じ、その危機を共有し、各分野の人たちが協働して討議し、いかに文化 遺産の研究活動を推進していくか、そうした問題意識が研究の場および作業現場に持 ち込まれ、収斂されて成立する新ディシプリンが文化遺産学となっていくことになる 。

 文化遺産は21世紀の学問となり得るか。文化遺産学がなぜ重要なのか。それは これまでの文化財研究の展開や従来の学問体系や枠組みでは対応しきれない諸現象が 起こり、ボーダーレス化された有効な触媒道具例:従来の建築学や考古学では判明し ない遺跡地質学などによる新発見、諸作用を複数の分野で考察することによる新解釈の可能性が拓けてくるからである。

 つまり既存の知識や断片的な諸学の寄せ集めや応用ではなく、文化財の調査・ 研究を通じ人文・社会・自然の諸科学を融合した新方法論を構築し、普遍理論に向け て「知の再編成」の一翼を担おうとするものが文化遺産学なのである。

 文化遺産学においては、過去の文化現象が丸ごと眼前に迫ってくる。これまで の遺跡研究と保護実施については、既存のディシプリンから対応可能な部分だけを切 り取り、それに解釈原理と説明を加えて納得している面が強いのではないか。

 しかし現在最も必要な研究は、文化遺産研究の場で眼前に迫ってくる文化総体 をそのまま捉え、ボーダーレス化を踏まえた多様な方法論から新検証と新解釈を施す 道を探る努力が何よりも求められている。そうした地道な作業は既存の諸ディシプリ ンの枠を越えた新しい学問体系を形成していく努力につながり、それが文化遺産学の 萌芽になっていく可能性が高い。

 文化遺産学には、「学問のための学」の枠を越えた、文化遺産のある地域社会 との相互交渉が不可欠になってくる。もっとはっきり言えば、文化遺産を文化資源と して広く地域社会で活用してもらうための機会と場を設けていかなければならない。 言えることは文化遺産学The Science of Cultural Hentageは過去と未来を結ぶ総合科学として21世紀の新学問を形成していくことになる。