1994年2号

辞書と国際誤解

 辞書というものが、異なる言語システム間の転換を可能にすることを通 じて、多様な文化の相互理解を促進していることはいうまでもない。だが、同時に、辞書というものが、しばしば文化摩擦や国際誤解の構造的要因の一つともなっていることについては、まだ十分な注意が払われていないように思われる。

 辞書は、基本的に二つの異なる言語システムのなかから、ほぼ近似した意味を持つ単語や成句を取り出してこれを1対1の対照表にしたものである。しかし、言語の本質からして、異なる言語システムの単語や成句というものは、完全な等号で変換できるような単純なものではない。数学的な表現でいえば、言語の置き換えは精々の所近似値に過ぎない。つまり、辞書で日本語のある単語が英語のある単語と同じ意味だとされていたとしても、それは厳密にいえば、A=Bなのではなく、せいぜいA≒Bだと説明しているに過ぎないのである。

 近似値であるということは、厳密には常に異なる意味と象徴性とを持つということであり、この差異を精確に認識することが、現段階の多様な文化の相互理解にとって決定的に重要になってきているということである。つまり、辞書で同義として説明されている二つの異なる言語体系のなかの単語の意味が違う部分、この部分の説明が非常に重要になってきているのである。

 けれども、一般 に辞書はある言葉とある言葉が近似した意味を持つことの説明に没頭するあまり、この1対1で対応させられている言葉の意味が二つの言語文化の間で如何に本質的に異なっているかの説明をほとんど行っていない。これは現在の辞書の構造的欠陥ではないだろうか。

 かつて、鈴木大拙氏は『東洋の心』のなかで、英語の“Freedom”や“Liberty”という言葉と、その日本語訳とされる「自由」という言葉の意味が如何に違うかを論じながら異文化間の相互理解の難しさに言及されたことがある。仏教の「自由自在」に由来する「自由」という言葉が、歴史的・文化的に欲望からの解脱、解放を意味しているのに対し、欲望が充足されないことを「不自由」と考え、欲望の充足に「自由」を見出すという文脈での“Freedom”の意味とは、正反対ですらあることに注意すべしと氏は説いたのである。この二つの言葉の歴史的、意味論的差異を理解しないままに、英語の“Freedom”と日本語の「自由」とが完全な同義語と誤解することから、さらに重大な誤解が生ずるという訳である。英語の“Freedom”と日本語の「自由」の意味が完全に同じだと誤解している英国人は、日本人は「自由」の観念をもつていない、自己主張をせずに自主規制、自制心、協調性の重要性だけを協調すると批判し、日本人は英国人をはじめとする欧米人は、しばしば自由を放縦とはき違えており、過度に欲望至上主義的だと批判することになる。

 一神教のなかでの“God”という概念と、多神教や自然信仰のなかでの「神」概念が如何に違うかを認識せずに、お互いに相手の宗教が排他的、非寛容だとか、無原則、曖昧だと論難しあってもあまり意味がない。「神」=“God”という誤解が、たとえばどれほど「祭政分離」の論争を混乱させてきたかを論ずれは一巻の書物をなすこととなろう。

 椿山荘の蛍狩りに海外の友人を案内するたびに、私は「蛍」と“Firefly”の象徴的意味が如何に違うかを事前説明することにしている。日本でお別 れの際に歌われる「蛍の光」という歌のもとになっているスコットランド民謡の題名は“Auld Lang Syne”であってその歌詞のどこにも「蛍」などということばはない。「蛍雪時代」という言葉も英語に直訳しては意味不明となるし、『源氏物語』の「蛍の巻」の風流も欧米人には必ずのもぴんとこない部分である。なぜなら、文化によっては“Firefty”=「火蠅」は必ずしもよい象徴的意味を持っているとは限らず、ある文化では川縁の地を張っている大型の「蛍」の姿から「地獄の使者」というイメージで捉えられているものもあるからである。「地獄の使者」という無気味な「蛍」イメージをもっている外国人を、蛍狩りの風流に招待すれば文化摩擦が生ずること必定である。

 こうした問題意識から、以前、私は多くの異なる専門分野の友人たちと協力して、辞書でほぼ同じとされている言語の意味が、異なる言語システムの間で「如何に違うか」に焦点を合わせた特別 の辞書を作りたいという構想を練ったことがある。この異文化間コミュニケーション辞典を作成する構想はまだ実現していないが、地球産業文化研究所のプロジェクトにしていただければ是非積極的にこの構想を実現してみたいものである。

 

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