1996年5号

-アジア点描(2)-

日本人駐在員のメディア事情

 タイ、マレーシアの状況である。現地に行く前に私は、異国の地に赴任した日本の駐在員達は、日本からの情報も少なく大変だろうと勝手に考えていた。ところが行ってみると全然違う。バンコクなら日本の朝日新聞が、日本と同じく当日の朝読めるのである。これにはそれなりの仕組みがある。現在、新聞の活字の組み上げは殆ど電子製版であり、組上がった段階で衛生回線を利用して日本からタイにデータを送っている。朝日新聞はタイに印刷工場を持っていて、日本と同じタイミングで新聞を作っている。また、日本経済新聞は同様な施設をシンガポールに持っている。従って、シンガポールでは日経新聞が当日の朝読めることになる。そして、タイとシンガポールの中間のマレーシアでは、それぞれの新聞が当日の午後届くという状況になっている

 それではテレビはどうかというと、ここでもそれなりの仕組が出来ている。テレビを通 して直接見られるのはNHKの定時ニュースぐらいであるが。ちゃんとそれを補完するものがある。ビデオである。日本人が多く住む地域にはビデオ店が必ずあり、1週間~10日程の前の日本のテレビ番組は殆ど揃っている。それを電話一本で宅配してくれるのである。ピザならぬ ビデオの宅配便である。これを、駐在員の家族はかなり利用しているようだ。ビデオは当然海賊版ということであろうが、どのような場所でも、需要があればそれを埋めるビジネスが必ず出でくる。このような情況を見ると、確かに地球は狭くなりつつある。

クワラルンプールの夜は更けて

 私の出向元の事務所が現地にあり、現地駐在員の人が食事の後カラオケに連れていってくれた。当地のカラオケは、日本ではカラオケボックスというスタイルなのだが、いささかシステムが違う。日本では部屋を借りる形であるが、ここでは各部屋に店の女の子が何人か付く。日本で言えば、カラオケボックスとスナックの中間の形態ということになるのであろうか。彼曰く、ここではオンリーとバタフライという2つのシステムがあるという。オンリーは自分の気に入った女の子を指名する形である。一方のバタフライは、最初適当に女の子が座り、あとは適当に女の子が各部屋を渡り歩いて行く。さしずめ彼女達は蜜を求めて花から花へと渡り歩く蝶で、我々はお金という蜜をせっせと運んでくる花という意味なのであろうか。ともかく、彼女達は歌っても、話しをしても実に日本語が堪能である。更に、英語、マレー語、中国語を自由に操るのだから、これはバイリンガルどころではない。実際、私の隣にいた女性は、中国の福建省出身と言っていたが、私との会話は日本語、歌は英語、隣の同僚と話す時は福建語といった具合に異なる言語を使い分ける。これが、多民族国家マレーシアの特徴なのだろうか。確かにマレーシアは、マレー系60%、中国系30%、インド系10%から成る多民族国家であり、日本語以外は現地で通 用する理由はそれなりに分かる。それでは何故日本語が通ずるのであろうか。私はこれを、日本の経済力が作り出した空間なのだと思う。この空間は日本経済の影響度合いにより、脹らみも縮みもする。そして、日本経済がだめになれば消滅してしまうだろう。このような空間が今東南アジアのあちこちにできている。異国の地に出来た多言語が飛び交う一種不思議な空間である。そこで、彼女達が日本語を話すのは、日本語が彼女達の生活の糧となっているからであろう。日本語は彼女達の生活を支える手段なのである。彼女達の日本語は、決して学校で学んだものでも日本に行って覚えたものでもなく、店に来る客と日本語の歌による学習に負うところが大きいように思う。我々は、経済の影響力と言語の関係というものを、もう少し冷静に見極める必要があるのかもしれない。

 最近日本では、インターネットの普及により、これを充分使いこなすには少なくてもバイリンガルにならなくてはという意見をよく聞く。一方では、インターネットは英語文化圏の産物なので、ここから日本の文化が崩されていくと危惧する意見もある。確かに、英語は植民地時代にその圧倒的な力を背景にして世界大に広がり、現在ではグローバルに通 用する言語となった。しかし、冷静に考えた時、英語の背後にある西洋近代文明は世界経済を圧倒的な力で支配しているのだろうか。また、もう一つの力である文化という意味でも西洋の思想は現在でも絶対なのだろうか。そうではないと私は思う。人々が他の言語を学ぶという基本には、そこにより良き生活のための糧があり、より素晴らしい知識があるからだと思う。確かに英語は現在、世界に対して強い影響力を持つ。しかし、これからの時代、英語が我々の生活を支えてくれるのか、よりよい知識を授けてくれるのか、それは分からない。バイリンガルになることは有用だと思うが、異なる言語間を結ぶ背景にある経済と文化というものを、今すこし深く考えてみることも必要ではないだろうか。カラオケボックスの女の子達は、そのことを私に教えてくれた。そこで何曲歌ったのか覚えていないが、歌い疲れて店を出たとき私の腕時計は午前2時を回っていた。

 

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