2001年2号

国際規範の国際化

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 2月のえひめ丸沈没事件をめぐって、激しい対米批判が巻き起こった。たしかに、事故は米潜水艦の信じられないようなミスによるものであったから、関係者の怒りや悲しみは当然だった。しかし、全体としてアメリカ側の謝罪は迅速、率直だった。大統領、国防長官、駐日大使は速やかに謝罪したし、宇和島水産高校を訪れた特使の威厳に満ちた謝罪は立派だった。事実の解明も、全体として速やかに進んでいる方ではないだろうか。

 にもかかわらず、日本側のアメリカ批判は、かなり強烈だった。一時は土下座をしろという声もでた。家族が一時的な感情からそう言うことをいうのはともかく、マスコミがこれをそのまま報道したりするのは賛成できない。正義は被害者の側にある、だからいくら強く出てもかまわないというのは甘えであり驕りである。国際関係は微妙なものである。中国や韓国が戦争や植民地について執拗な日本批判をするとき、多くの日本人は不快に感じる。そして反論できないまま、不満は蓄積する。これは決して健全なことではない。

 私が不思議に思うのは、自らなしえないことを相手に要求する態度である。参議院のドンと言われた村上正邦氏は、訴追の可能性を理由に証言を何度も拒んだ。森首相は、ゴルフ場にいた問題について、しばらく謝罪はせず、最後になって、「いた場所が不適切だということであれば、お詫びしなければならない」と条件付の間接的な謝罪をしただけだった。一般に、日本で政治家が謝罪をするときに、「世間をお騒がせした」「誤解を招いた」と言うだけで、率直さに欠けることが多い。それに、組織ぐるみで仲間内の問題は隠そうとするのは、マスコミを含め、よくあることである。それでよいと言うのではない。自らなしえないことを、あまり強く他に求めるべきではないと考えるのである。


 戦後、日本が苦境にあったとき、もっとも親日的な態度を示してくれたのはインドだった。1946年、東京裁判において、インドのパル判事は、勝者が一方的に裁く裁判のやり方に強い疑問を呈した。1951年、インドはサンフランシスコ講和会議に欠席したが、その理由のひとつは、条約の内容が報復的で、過酷だということであった。今日からみて、講和条約は寛大なものであったように見えるが、インドはこれを過酷であると批判したのである。インドがこうした態度をとったことには、多くの理由があるが、いずれにせよ、短期的な自国の利害とは無関係に、公正な判断を示したものだった。

 われわれは中国や韓国との関係で、いつも歴史認識の問題で苦労する。あるシンポジウムで、韓国の学者から、日本の朝鮮支配は歴史上例のない残虐なものだった、といわれたことがある。そこにインドの学者がいれば、それは違うと反論するだろう。日本はきちんと謝罪していないと非難すれば、イギリスは何も謝罪していないというだろう。つまり、直接の利害関係がない立場から、公正な意見が出せるのである。

 昨年は朝鮮問題で大きな前進があった年だった。そこで金正日氏に対する見方がずいぶん変わった。オルブライト国務長官は金正日氏のことを魅力的な人物と語った。しかし、それはユーゴのミロシェヴィッチやイラクのフセインに対する態度とずいぶん違う。また、北朝鮮に対する寛大政策は、アメリカの対ミャンマー政策と著しく異なっている。


 私の言いたいことは次のようなことである。世界に長い平和が続いているせいで、国際関係に道義・規範を持ち込むことが増えている。しかしその規範は、二国間関係の中で持ち出されることが多く。地域と問題によって、大きく異なっていることが少なくない。しかし、国際規範ももう少し普遍的なものでなくてはならない。えひめ丸事件における日本のアメリカ批判や、アメリカのミャンマー批判や、歴史問題をめぐる中国や韓国の日本批判は、どうも突出している。国際規範は、直接的な利害関係の薄い第三者を巻き込んで、もう少し普遍的に通用するものに置き換えること、つまり国際規範の国際化が必要である。日本もそうした立場から、世界中のいろいろな問題に発言していくことが必要だろう。

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