2001年4号

退任にあたり

 経済学は、社会科学の女王といわれながら、その実、わが国ではほとんど信頼を得ていない。たいていの人が経済学の出す結論に違和感を覚え、反発を感じるようだ。誰かの議論を一言のもとに撥ねつける最上の言葉は、「理論と現実は違う」だし、「エコノミスト」と人を評するのは、その人の全人格を否定したいときだ。経済を論じるのは大好きだが、経済学は大嫌いというのが、一般的だ。

 80年代、円がどんどん強くなる中で、わが国もいよいよキャッチ・アップが終り、フロント・ランナーの仲間入りをしたと誰しもが考えた。だが、フロント・ランナーになって以降の対応を誤った結果が「失われた10年」であり、その主因がわが国に蔓延している経済学嫌いと救い難い市場不信にあることは間違いない。何故そうなのか。
 歴史的幸運に恵まれ、永いことわが国は、欧米の先例によって照らされたビジブルな世界を、進んでこれた。われわれ日本人はビジョン好きだが、一寸先が闇のはずの将来について、ビジョンを描けたのは、欧米の先例があったからだ。いろいろな制度・政策の優劣が先例によって事前にわかれば、それらを取捨選択するだけで、成功に到るビジョンが描ける。七面倒な経済原理の探求などしなくとも、よさそうな制度・政策が何かの見当ぐらいはつく。ビジョンができれば、それに沿って、政策支援や規制によって資源配分を重点化すればよいのであって、市場による模索の過程などショートカットできる。これこそ、フロント・ランナーでなかったわが国が享受してきた最大のメリットであった。

 経済学は完璧にはほど遠く、ミクロ経済学が重視する市場の機能には多くの欠陥がある。だが、先例のない暗闇の世界を進むフロント・ランナーにとって、経済学はほの暗いとはいえ、他に代えがたい先を照らす灯かりである。こうした認識がなく、経済学と市場を軽んじてきたわが国は、フロント・ランナーになった途端に、目の前が真っ暗になって不良債権の山に蹴躓き、なす術を見出せないまま10年余を過ごすしかなかった。もちろん、欧米のフロント・ランナーもよくこける。しかし、欧米は、不断に変わる経済の中で、最新の経済学の成果を活用し、新しい制度・政策を果敢に実験し、改革を試みてきている。温暖化交渉にすら、経済学の成果を利用して、自己利益実現のための戦略を練り上げてくる。彼我の違いの大きさには、暗澹とせざるをえない。

 経済学や市場の不完全性をあげつらうだけで、客観的根拠のある対案を示さない、理性的思考より、情緒的思考が優勢なわが国の現状を変えない限り、フロント・ランナーとしてわが国が世界に貢献してゆくことは難しいのではないだろうか。


 地球研の専務理事として2年間、以上のように考え、活動して参りました。しかし、京都議定書ひとつをとってみても、国際排出権取引等の京都メカニズムに制約をかけ、世界の持続可能な開発に背を向けて、巧みにエゴを正当化するEUの高等戦略が罷り通りそうな現実を前にすると、非力さを今更のように感じざるをえません。地球研の任務は益々重くなっております。こうした中で、この道のプロ木村耕太郎新専務に今後の発展を託せるのは、望外の喜びであります。退任にあたりまして、改めて、地球研での活動の機会を与えて下さった方々、貴重な専門知識をもってご指導下さった方々、ご支援いただいた会員・同僚の皆様方に、心からの感謝を捧げたいと存じます。有難うございました。

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