2013年3号

日本社会の強さと弱さを評価する ―日本力の充実と新しい貢献の道を求めて―

fukukawa
 
1.低下する日本力


 日本は1960年代から70年代にかけて目覚しい高度成長を実現し、世界から「20世紀の奇跡」とまで高く評価された。一時は諸外国から「エコノミック・アニマル」と揶揄されたこともあったが、1968年には西ドイツを抜いて世界第2の経済的地位を占め、ハーバート大学のエズラ・ボーゲル教授が「ジャパン・アズ・NO1」(1978年)という著書を出版した。アジア諸国の間では当時の日本の経済成長が成功モデルとして評価されたのである。
ところが、日本は、1990年代に入ってバブル経済が崩壊して、20年に及ぶ不況に苦吟し、最近では、残念なことに、日本に対する海外の評価が大きく低下している。
 世界に占めるGDPの割合を見ると、日本のそれは、1990年には14.3%であったが、2010年には8.7%に低下し、中国に抜かれて世界第3位となった。2030年には5.8%になるという予想もある。
 スイスにあるIMD(経営開発研究所)の国際競争力評価によると、日本は、1991-93年には1位にランクされていたが、2012年には27位に下がっている。対内直接投資の対GDP比率(2011年)を見ると3.9%で、欧米諸国はおろか、中国、韓国、シンガポールにも大きく水をあけられているし、2000年には125社あった東京証券取引所上場の外国企業が最近では9社にまで激減した。
 2012年12月に自由民主党が政権に復帰し、安倍内閣がいわゆる「アベノミックス」を展開して円相場の下落と株価の上昇で経済にやや明るさが戻ってきたが、市場は、構造改革の中心となる成長戦略の動向に関心を寄せている。日本がかつてのような力強い成長力を取り戻すという国際評価を得るには至っていないのが現状である。
 このような状況から、日本力(ジャパナビィテイ)を再定義し、これを高めることによって成長力の回復につなげ、「新しい日本」を創成しようという試みが始まっている。言い換えれば、成長力の背景にある日本社会或いは日本人がもつ強さを伸ばし、弱さを是正し、再び世界において日本の輝きを取り戻そうという努力である。私は、この運動を推進しようとしている一人である。

2.日本のもつ社会的な強さ


 それでは、諸外国と比べて特色付ける日本の強さはどこにあるのであろうか。
 第一は、自助と共助の精神の共有である。これは、東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方の人々の沈着で秩序正しい対応で如実に示され、諸外国からも高く評価された。 
外国人の目から見ると、一般的に日本人は謙虚で、政府への要求も控え目だと映るようだが、日本人の心のなかには、自分たちで何とか努力して困難を乗り切ろう、仲間で助け合おうという精神が息づいている。日本社会が「逆境に強い」、「追い込まれると強さを発揮する」といわれる所以でもある。それは、日本社会が沿革的に農耕社会として発展し、天候など自然の脅威に対して我慢強く対応してきたことに由来するものであろう。
 第二は、「道」を窮める自己研鑽の努力の存在である。モノづくりに見られる匠の技はその典型である。漆、衣装、花器、陶芸など日本の伝統工芸品のきめ細かい技巧と繊細な美しさは、海外でも高く評価されている。この特質は、現代における工業製品の性能の高さやデザインの素晴らしさに表れている。
 華道、茶道、書道などの日本の伝統文化には奥義を追及する伝統がある。これは「形」の美しさが「こころ」の清らかさの発露であるという思想からきている。同時に、日本人は「振る舞いのこころ」を大切にし、自らの動きが他人に好感を与えるように努力する伝統がある。これが日本の街が清潔で、安全であるという評価に繋がっている。
 第三は、社会集団における信頼と調和を尊重する精神にある。1980年代にフランシス・フクヤマ教授が、日本企業の強さはその組織内の信頼(TRUST)にあると指摘したことがある。「現場主義」、「かいぜん運動」、「かんばん方式」などがその例である。高度成長期の経済運営に関し、政治、行政、民間の連携の強さから欧米諸国で「日本株式会社」と批判されたことがあったが、これも相互の「信頼」の表れであろう。
 日本の社会では、信頼を高めるために他者との「調和」を大切にする。日本では「罪の文化」よりも「恥の文化」に係っているといわれる所以でもある。この傾向は、客を暖かくもてなし、喜んでもらおうという「もてなしのこころ」にも表れる。こうした「こころ」によって、相互の信頼感を高めようとするのである。
 日本の政治のリーダーはしばしば「和の政治」を指導理念に掲げるが、これもこの同一線上にある。
 信頼と調和を尊重する精神は日本社会の同質性が高いことに支えられているといえよう。
 第四は、異文化への寛容性とその高い吸収力にある。
 日本は、奈良、平安時代には中国大陸に遣隋使、遣唐使を派遣してその文化や技術を積極的に導入し、16,17世紀にはオランダ、ポルトガルなどの先進文明を積極的に学びとった。明治維新以後は欧州の文明と統治メカニズムを幅広く導入し、第2次世界大戦後は米国などから先進的な技術や経営手法を多く学んできた。経済技術分野ばかりではなく、文化芸術の面でも日本は海外から広範に吸収した。現在の東京では、世界一流の演奏会や絵画展、そして食文化などが楽しめるし、世界の舞台で活躍する芸術家、デザイナー、シェフなどが多く現れている。
 日本文化の特色としてハイブリッド性が挙げられるのもこの表れである。確かに、日本では、西欧的なものと日本的なもの、現代的なものと伝統的なもの、技術的なものと文化的なものが有機的に混在し、それが見事に融和している。また、いくつかの宗教的な行事が社会生活の中に息づいており、宗教文化的な寛容性が高い。
 第五は、自然との共生の中に高めてきた生活文化と感性にある。
 欧米では、旧約聖書の教えにある「神は万物を支配するために人間を創りたもうた」という教えから、自然や資源は人類が支配すべきものという思想が浸透しており、地球環境の悪化は技術的な不完全性の所以だと考える傾向がある。一方、日本などアジアでは人類と自然とは共生すべきものだという思想が息づいており、自然の機能を活用しながら環境の改善を図ろうとする。自然の恵みを大切にする考えから「もの」を大切にしようという生活文化が定着しており、「もったいない」という思想が行渡り、「足るを知る」という徳が尊敬されている。日本が、省エネルギーや環境保全に優れた実績を上げているのはこの特質の現れである。
 日本人は、伝統的に四季の変化の中で感性を高め、自然美と人工美の調和を大切にする技法を高めてきた。例えば、日本庭園は、自然の美しさと人工の技法を巧みに組み合わせており、欧州の庭園が幾何学的な美しさを基調としているのと対照的である。しかも、日本庭園は、四季折々の変化を取り入れ、多様な美を演出している。加えて、「借景」を重視し、庭園内部の華麗さと周囲の美しさが巧みに調和するよう配慮している。
 四季の変化といえば、和装にも著しい特色がある。四季に応じて素材を巧みに変化させている。友禅などではいわゆる「ぼかし」の技法が珍重されているが、これは四季の変化に現れる中間領域を象徴するものであろう。直截的な西洋の美的感覚に対比して、顕著な特色をなす。これらは、正に自然の美しさと人工による技術の融合なのである。
 こうした特徴は、日本の食文化にも表れている。自然の素材の特質を活かしながら、健康にも留意し、しかも素晴らしい味覚を提供し、盛り付けなども芸術的である。日本食には、自然の恵みと季節感が息づいている。最近、フランス料理などでも懐石風を取り入れる試みが表れているが、これは日本の食文化の魅力を象徴するものである。

3.日本社会のもつ脆弱性


 一方、日本社会には、諸外国に比べて、いくつかの弱点がある
 第一は、自己決定能力の弱さである。
 最近、政治の分野では、世界に共通する現象でもあるが、世論におもねるポピュリズムの傾向が強く、本来の政治に課された崇高な使命を達成する自己決定が困難となっている。とりわけ日本の企業社会では、前例依存、他社追随の傾向が強く、ベンチャー企業がなかなか育たない。社会に出てくる若手社員の間でも指示待ちの傾向が強く、問題発掘、問題解決の意欲に乏しい。
 これは、調和重視の傾向の裏返しでもある。同時に明治時代以来の政府依存の意識の残渣でもあろう。自己決定能力の欠如は、政治の活力を損ね、企業活動を弱め、イノベーション力を低下させるばかりでなく、日本の存在感の低下にも繋がっている。
 日本の社会が「空気」に流され易いのも、この傾向の表れである。第2次世界大戦の開戦は、その典型であるが、最近の政党の人気の変化にもその傾向が読み取れる。
 日本社会では、とかく他人の足を引っ張る傾向がある。これは自己決定能力の弱さの反映でもあろう。日本では、「出る杭は打たれる」という表現があるように、社会の調和を重視するあまり、率直に成功者を讃える気風に欠けている。日本では世界から評価される政治家が出ないし、国際企業のトップに招かれる経営者も現れない。世界で活躍するエリートが少ない背景には、こうした社会風土があるのかもしれない。
 第二は、論理思考を回避する傾向である。
 日本社会においては、議論や交渉について論理的決着を避けようとする曖昧さがある。政治の世界では、いわゆる「和の政治」の表れとして、しばしば「足して2で割る」妥協で結論が出され、時として「貸し借り」で決着が図られる。最近、両院の「ねじれ現象」で、政治が停滞することが多いが、これも論理性よりも感情的対立とか「うらみ」によるものがある。ビジネスの世界でも、長期的関係の保持という名目で、あいまいな商慣行が続いており、しばしば海外から批判を浴びてきた。
 日本人は、とかく論理的な議論で決着をつけると人格的対立につながるという理由から、これを避ける傾向がある。しかし、このことは、グローバリゼーションの時代では海外との交渉では誤解を生み、時代の変化に遅れをとることになる。ましてや不確実性と不安定性を高める21世紀の世界において自己の主張を実現しようと思うならば、論理的説得力なしでは不可能である。
 第三は、国際性の弱さと国際貢献の消極性である。
 最近、日本人の多くは、内向き志向となっている。日本は、最近、経済規模で中国に抜かれたとはいえ、世界で有力の経済規模を保っている。アセアン諸国などから、日本のアジアにおけるリーダーシップを期待する声が大きい。
 しかしながら、これまでも、「小切手外交」と揶揄されてきたように、日本の国際貢献は、資金協力に偏り勝ちであった。安全保障、秩序形成、知的創造の面となると、日本はさしたる貢献をしてこなかった。その傾向が今もなお続いている。
 企業活動の面を見ても、外国企業の日本進出も、日本企業の海外進出も、欧米諸国はおろか、韓国、台湾。中国、シンガポールなどに比べて著しく遅れを取っている。
 そればかりでない。最近、中国、台湾、韓国、シンガポールなどの学生が積極的に欧米に留学しているのに、日本からの海外留学生は、2003年の82,945人をピークに2010年には58,060人に低下した。米国への留学生は2011年に19,966人で中国の留学生に比べて10分の1 にすぎない。日本への海外からの留学生は、2012年に137,758人で、10年前に比べて倍増してはいるが、最近4年間は横ばいである。大学型高等教育の学生に占める海外留学生の割合は、2.9%に過ぎず、OECD平均7.8%の3分の1に止まっている。 
 日本のジャーナリズムやシンクタンクなどの活動を見ても、海外とのネットワークが弱く、国際問題への関心が低い。
 第四は、コミュニケーション能力の弱さである。コミュニケーションというと、情報と意思の伝達、相互の理解の促進、そして共感の醸成という3つの側面が含まれるが、日本語には、それにふさわしい表現がない。我々は、「コミュニケーション」という単語をいわば日本語のように使っているが、それに気づいている日本人は少ない。日本では、昔から、「目は口ほどにものを言い」、「沈黙は金」などを教訓としてきたが、これらが象徴するように、発言して理解を求めることを控える文化があった。その背景には、日本社会が価値観を共有しやすく、表現による説得によらずに理解し合える社会環境があった。
 従って、論理的に自己の主張を根拠付ける教育もおろそかであった。一般的に、日本人は、国際会議などで論理的に説明する能力が低い。
 英語力も弱い。TOEFLの成績を見ても、日本は163国中137位、アジアでは30国中28位である。

4.グローバリズムの定着に貢献する日本力


 以上が、私が見る日本社会の持つ強さと弱さである。私は、21世紀には、世界の統治構造は多極化し、主要国が協調して秩序維持に当たるグローバリズムの時代になると期待している。しかしながら、現実には、核の拡散が進み、宗教、民族などの対立が激化し、テロ活動が拡大し、しかも主要国間の協調が揺らいでいる。安全保障上のリスクを軽減するためには、主要国の協調体制の再生と強化が不可欠である。
 経済の側面を見ても、米国主導の市場原理主義と金融中心の経済運営が行き詰まり、資源エネルギーの供給限界が顕在化し、地球環境が悪化している。これを克復しようと思うならば、世界は、新しい産業システムに挑戦し、物質価値を超えて、自然と共存し、人間価値、文化価値を重視した成長パターンを追及しなければならない。
 20世紀には、目覚しい技術革新が進んだ。これは経済成長を可能にしたが、同時に2度の世界大戦と東西の冷戦を招いた。いわば、「技術と対立」の世紀であった。これに対して、21世紀には高度技術と情報システムが人間の価値を充実させ、文化や生活を高度にするとともに、企業や人の国境を超えた交流を活動を活発にする。主要国がグローバリズムの定着に向けて協調していかなければならない。正に「人間と協調」の世紀の到来である。
 そうだとすれば、前述の日本の強さは、21世紀の世界の秩序運営において大きな力を発揮できるはずである。我々としては、日本のもつ弱点を是正しつつ、優位性を高めていけば、日本は、新しい意味において、世界の安定と発展、そして人類の福祉向上に大きく貢献する国になることができる。

▲先頭へ