1996年1号

「近代史から学ぶこれからの地球観」

 これまでの文明論は世界は広いという認識に立っていたように思われる。しかし、今、発想を転換すべきであろう。「地球には本当は国境などないし、日本だけを見ようとしてもすぐにほかの国が見えてしまう。」と語ったのは、宇宙から帰還した毛利衛氏である。交通 ・通信・情報産業の発達によって、地球上の諸地域は急速に結びつき、世界は狭く、地球は小さくなった。この認識がこれからは必要であろう。

 地球は陸と海からなる。陸地には現在、大小様々な二百近い国があり、三千余りの民族が住まう。これらの諸国・諸民族を陸と海という観点から整理すると、多くの陸地が海によってつながり、その中の一国として自給自足で成り立つ国はないという意味から、「多島海」という比喩的表現が的を得ているように思われる。アメリカ、ロシアのように広大な国土を持つ国も、シンガポールのような小国も、相互に依存しネットワークの中に取り込まれている。ネットワークは今後一層進化するであろう。多島海は比喩であるが、世界のネットワーク化は現実である。

 日本は四方を海に囲まれているにも拘らず、これまで陸地に偏向した歴史観からしか世界を見てこなかった。戦後日本の歴史観を大別 すれば、東大アカデミズムの唯物史観と、戦後京都学派の生態史観である。唯物史観は近代社会の成立を、封建制から資本制への移行の中で小土地所有者が、土地(生産手段)を持つ資本家と、生産手段を失う労働者に二極分解する過程として捉える。一方の生態史観は遊牧社会と農業社会の対抗関係で世界史を捉える。これらは共に陸地史観である。

 海から近代史を捉えると、どのように見えるだろうか。

 近代の成立過程において、ヨーロッパ人の活躍の舞台は地中海世界から大西洋世界へ拡大した。その飛躍的発展は自生的に起こったものではなく、イスラム世界からの外圧に対するレスポンスであった。両者の勢力関係の変遷を見ると、中世の終わりを告げる象徴的事件は、ブローデル『地中海』(藤原書店)にならって、レバントの海戦(1571年)が適切であろう。この海戦によってキリスト教圏側はオスマン・トルコ海軍を撃破し、後方の憂いなく、大西洋に進出した。一方インド洋は依然としてイスラム教徒の海であった。しかし第一次世界大戦までに、インド洋はキリスト教圏の支配する海となった。そのときヨーロッパの近代が完成する。近代とはイスラム・アジアの外圧をはねのける脱亜であった。

 一方その圏外にあったのが、東アジア文明圏である。東アジア世界のダイナミズムの構成要素は中国文明と日本である。日本国は、白村江の海戦(663年)で敗退したのち、唐の外圧におびえながら急速に律令制・都域制・正史を受容することによって誕生した。また江戸時代の経済社会は、秀吉の朝鮮出兵の失敗の後、清を警戒しながらも文物の長崎・対馬を通 して受容し、それを国内自給する過程で生まれたものである。その帰結である鎖国という日本型中華体制が確立するのが大体1800年頃である。日本は中国という巨大アジア文明から自立したのであり、これもまた脱亜である。

 ヨーロッパも日本もアジアの海域からの外圧を梃子として発展してきた。ヨーロッパはイスラム文明を父とし、海洋イスラムを母として生まれ、日本は中国文明を父、海洋中国を母として生まれたのである。明治以降今日に至る百三十年は、近代西洋と日本という二つの「脱亜文明」の競合の過程であったといえる。現代史の舞台である太平洋は、二つの脱亜文明の間にダイナミズムが働く空間である。

 近代西洋型の脱亜文明の遺産は地球大に広がったが、今世紀末に至り、その限界が露わになった。戦争、環境破壊、南北格差、人種差別 、難民など、いずれも近代西洋文明の落とし子である。それらの根本的解決策であった社会主義が破産し、西洋文明の中心国アメリカは世界最大の債務国に転落し、西洋近代文明はその遺産をほぼ使い果 たしたように見える。

 日本型脱亜文明の遺産は未使用の知恵蔵である。その中で特筆されるべきは、日本の支配者が持たざるものであったという事実である。近代ヨーロッパの成立過程では、持てる者が資本家、持たざる者が労働者となった。それに対して日本では、兵農分離によって、土地(生産手段)から切り離された持たざる武士層が誕生した。世界広しといえども、土地を持たない支配者は日本だけである。武士は政治的には統治者として、経済的には藩という企業体で経世済民(経営)にいそしんだ。ヨーロッパでは富を持つことが資本家の条件であったが、この国では富ではなく徳をもつことによって経営者としての正当性が保証されたのである。

 ヨーロッパでは資本と経営が分離するのは十九世紀末であり、その理論化は1911年のシュンペーターの『経済発展の理論』まで待たねばならない。ヨーロッパでは近代の初期に労働から資本が分離したのに対し、日本では労働から経営が分離した。日本における近代企業の父といわれる関東の渋沢栄一、関西の五代友厚に典型的に現れているように、そこに見える姿は蓄財をする資本家ではなく純粋な経営者であった。

 その背景は江戸時代の経済社会の倫理観にある。中国では文官になることは家産を殖やすことに通 じていた。同じ朱子学を奉じながら、日本の武士層は家産官僚にはならなかった。家は形式的な家格となり、家産ではなく家格が重んじられた。高い家格は必ずしも富とは結びつかず、徳の高さと結びついた。治国安民の職分を果 たすには富でなく、徳が条件とされたのである。現代日本の統治・経営に携わる者のなかに富はあっても徳のある顔は稀となった。日本が江戸時代に限られた閉鎖空間のなかで力のバランスを維持し、環境を保全し、天下太平を享受することを可能にした経験は、これからの狭くなった地球社会にとって絶好のモデルとなる。我々は地球という有限空間を生きる知恵を、自らの近代化(脱亜)の歴史からもっと学ぶべきではないだろうか。

 

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