令和3年度 排出クレジットに関する会計・税務論点等 調査研究報告会 要約


■ まえがき ■

 2015年パリで行われたCOP21/CMP11において、2020年以降の新たな気候変動に係る国際枠組みを規定するパリ協定が採択された。パリ協定は京都議定書と異なり、全ての国が参加する画期的なものであり、市場メカニズムの活用やイノベーションの重要性も位置付けられた。COP26は新型コロナウイルスの感染の影響を受け、2021年11月に延期となったが、それまで未解決の課題・論点(例;市場メカニズムの実施細目等)の多くが解決し、各国は2050年におけるカーボンニュートラル、そしてそれを実現すべく2030年目標の引き上げに各国は取り組みを開始し、また気候変動問題への効果的、加速的対処を求める社会的な要請は、特に若い世代を中心に高まりを見せている。
 当研究所では、過年度から京都メカニズムの会計・税務問題について調査研究を進め、国内排出クレジットに関する会計・税務問題についても幅広い調査研究を実施してきた。今年度も、これまでに蓄積してきた知見をベースに、会計・税務の観点を踏まえて、引き続き、気候変動に関する諸問題についての最新動向等について調査研究を行い、産業界さらにはわが国としての気候変動対策の推進に資することを本委員会の趣旨とする。


■ 名 簿 ■

委員長: 黒川 行治 千葉商科大学 大学院会計ファイナンス研究科教授
慶應義塾大学教授 名誉教授 
委 員: 伊藤  眞 公認会計士
委 員: 大串 卓矢 株式会社スマートエナジー 代表取締役社長
委 員: 髙城 慎一 八重洲監査法人 社員 公認会計士
委 員: 髙村ゆかり 東京大学 未来ビジョン研究センター 教授
委 員: 武川 丈士 森・濱田松本法律事務所 パートナー 弁護士
委 員: 村井 秀樹 日本大学 商学部・大学院教授
(五十音順・敬称略)
(令和4年3月現在)
事務局  
     蔵元  進 一般財団法人 地球産業文化研究所 専務理事
     前川 伸也 一般財団法人 地球産業文化研究所 地球環境対策部長 主席研究員
 
(令和4年3月現在)


■ 第1章 開題 ■

2021年度排出クレジットに関する会計・税務論点等調査研究委員会開題

                      ――「地球市民」の観念の危機にJ.S.ミルを読む―

委員長 黒川行治


 1.新型コロナウイルス禍とロシアのウクライナへの侵攻下での研究委員会を2回開催


 2021年度(令和3年度)排出クレジットに関する会計・税務論点等調査研究委員会は,新型コロナウイルス禍が続く2021年12月22日に第1回研究委員会が開催された。例年どおり,第1議題として,三菱UFJリサーチ&コンサルティングの吉高まりオブザーバーから「気候変動に関するESG投資の動向~日本企業のリスクとビジネス機会~」と題するご講演を,第2議題として,高村ゆかり委員から「COP26の結果と気候変動に関わる動向」と題する講演を,東京都環境局の東川直史オブザーバーから「東京都キャップ&トレード制度 第二計画期間の削減実績動向」の情報をいただいた。さらに,ご多忙のところ同席いただいた経済産業省の長田稔秋METIオブザーバーから,地球温暖化対策に関する国際情勢など諸々のお話を伺った。
第2回研究委員会は,2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻から2週間後の3月10日に,参加者全員,沈痛な思いを抱きながら,しかし,気候変動対策の必要性は揺らぐことがないという信念のもとに予定どおり開催された。第2回研究委員会では,第1議題として,経済産業省の高橋幸二METIオブザーバーから「二国間クレジット制度(JCM)の最新動向」と題する講演を,第2議題として,東京都環境局の東川直史オブザーバーから「東京都の気候変動対策の現状と課題 ゼロエミッション東京戦略~2030年カーボンハーフに向けた取り組みの加速~」と題するご講演をいただき,委員およびオブザーバー各位によって両議題に関する活発な意見交換がなされた。
 本報告書に掲載される講演および報告資料は,第1回研究委員会および第2回研究委員会における報告内容である。コロナ禍およびロシアによるウクライナ侵攻下にもかかわらず,ご講演をしていただいた講師諸氏,ならびに活発な議論に参加していただいた委員およびオブザーバーの皆様に,心より感謝申し上げます。

 2.「地球市民」の観念の喪失――


 2022年2月24日に始まったプーチン政権のロシアによるウクライナ侵攻は,地球環境への危機,とくに地球温暖化の危機をくい止める対策に関する国際的連携の機運を一挙に帳消しにする暴挙である。地球環境の悪化の影響は,国という地球上の人類の生息域を人為的に分割した境界を飛び越え,全人類共通の問題であることから,「地球市民」すなわち,地球を共通の故郷とする市民という観念が普及しつつあった。SDGsに代表される地球市民が目指す目標は,パリ協定の前文と同様に,環境問題に限らず基本的人権の擁護,世界中から貧困・飢餓・公衆衛生・労働条件の脆弱性を改善するための開発など多岐にわたり,それらの遂行は,個々の人々それぞれが現在の環境を享受する者として,未来世代に好ましい地球環境を遺産として残すための義務と考えるようになってきたのである。
 私たちが善き人生を送るための道徳・倫理の規準は,国という組織,企業という組織に固有の道徳・倫理(国民として,あるいは企業人としての道徳・倫理)ではなく,すべては個人のそれに還元されるはずだった。金融資本主義,形式的功利主義を背景として生じた経済・富の大きな格差への疑問と,豊かな社会・豊かな人生とは何かという思索が,産業革命以後の近代文明の革新に結実するという期待を抱かせていた矢先,プーチン政権のロシアのウクライナ侵攻は,その期待を大きく後退させる危機をもたらしたのである。

 3.プーチン大統領の独断の根底――


 プーチン大統領のウクライナ侵攻決断の背景に関して,政治的見地,経済的見地,軍事的見地から,それぞれの専門家による多くの解説がなされている。ロシア問題には全く専門外の私が私見を述べるのは不遜極まりないところであるが,今回の暴挙に関して,私が拝読・学んでいるJ.S.ミルの代表的な著作である。
 『功利主義』,『自由論』,『代議制統治論』の内容を抜き書きし,ミルがこの暴挙を目撃したならば,どのような意見を述べたであろうか推察したいと思う。ミルは約150年前に自由で民主的な政権・統治による社会全体の幸福を願っていた。もちろん,ミルはこれらの著作において,国と国との戦争状態を念頭において考察していたとは到底思えないが,戦争を起こすのは結局,為政者としての個人であり,遂行の当事者は国民であることから,ミルの著作の内容の一部を紹介する奇異な試みをご容赦いただきたい。
 ミルが想定している功利主義は,べンサムのそれが「各自が自己の効用を最大化するように行為をすればその合算である社会的効用も最大になる」という形式的功利主義(黒川が呼ぶところの)とは異なることに注意する必要がある。例えば,ミルは,「効用という基準は,行為者本人の最大幸福ではなく,すべてを合算した上での最大幸福だからである。高貴な性格の人がその高貴さのおかげで,いつでも,(自分自身も)いっそう幸福でいられるのかどうかは疑わしい,という見方があるかもしれない。それでも,この高貴な性格が他の人々をいっそう幸福にし,世の中全般にとって非常に大きな利益となることは,疑いの余地はない。だから,高貴な性格が世の中全般で陶冶されてはじめて,功利主義の目的達成が可能になるのである。」(注1)というのである。
さて,プーチン大統領である。彼のロシア統治も20年以上になり,年齢も本年10 月で70歳になるので,第1に考えられるのは「権力者の老害」の発現である。「社会に対する情感も身近な誰かに対する情感も持たない人の場合,人生のもたらす気分の高揚は大幅に失われていき,あらゆる利己的な利害が死によって終止符を打たざるをえないときが近づくにつれて,どんな場合であれ,物事の価値が徐々に低減していく。他方で,個人的情愛の対象を自分がいなくなった後まで残していく人,とりわけ,人類全般の利益に対する同胞意識の感情も合わせて育んできた人は,死の直前まで,若く健康で溌剌としていたときに匹敵するような,生き生きとした関心を人生に対して持ち続ける。
 利己心に次いで,人生を満たされないものと感じさせる主な原因は,知的陶冶がかけていることである。・・・陶冶された知性は,身のまわりのすべてのことに,尽きることのない興味の源泉を見出す。自然界の物事,芸術作品,詩の生み出す想像的なもの,歴史上のできごと,過去と現在における人々の生き方,人類の将来の見通し,といった具合である。」(注2)
 「自分が他者と共有している利益よりも自分の利己的利益を優先する性向と,自分の利益のうちで間接的な遠い将来の利益よりも目先の直接的利益を優先する性向という,今問題としている2つの邪悪な性向は,何にもまして特に権力を持つことで引き起こされ助長される特徴である。一人の個人でも1つの階級でも,権力を手にすると,その人の個人的利益やその階級だけの利益が,本人たちの目から見てまったく新たな重要度を帯びてくる。他人が自分を礼賛してくれるのを目にすることで,本人も自らの礼賛者となり,自分は他人の百倍も価値あるものと見られて当然だと思うようになる。その一方で,結果を気にせずに好きなようにする手段が容易に得られるようになるために,結果を予測する習慣が,自分にまで影響が及んでくる結果に関してすらも,知らず知らずのうちに弱まっていく。これが,人は権力によって堕落するという,普遍的経験にもとづいた普遍的な格言の意味である。」(注3)
第2に考えられるのは,訳者の関口正司氏の『自由論』の解説中に登場する「可謬性と権威」の問題である。すなわち,「可謬性の自覚が,「尊敬に値するすべてのものの源泉」であるにもかかわらず,しばしばないがしろにされる原因の1つは,誤りを認めると権威が失墜するから誤りを認めない,という姿勢だろう。ミルは,誰かが可謬性を自覚しながら自説の真理性を現時点で可能な限りで徹底的に検証した上でなら,ひとまずその説を世間が真理として受け容れることを否定はしていない。その限りで,ミルは,すぐれた探求者の権威を認めていると言ってよい。ミルが批判しているのは,いわば「権威主義的」な権威観であり,自分たちは無謬だから権威があり,権威があるから無謬である,という想定である。」(注4)
 第3に考えられるのは,そもそもプーチン大統領の性格が邪悪だったのではないかというものである。「他人の権利を侵害すること,自分自身の権利によって正当化できない損失や損傷を他人に与えること,他人とのやりとりで欺瞞や虚言を用いること,他人に対する有利な立場を不公正な形で,あるいは卑劣なやり方で利用すること,さらに,利己心のために他人を危害から守ってやろうとしないこと――これらは道徳的非難に相当するし,重大な場合には,道徳的な報復や処罰を受けても当然である。さらに,これらの行為ばかりでなく,これらにつながるような性向も不道徳と言ってよいし,聞いていて嫌な気分になりそうな非難を受けても当然である。残虐な気質,悪意や陰湿さ,あらゆる情念の中で最も反社会的で醜悪である羨望,本心を偽ったり隠したりすること,つまらない原因で怒ったり些細なことに恨みを持ったりすること,他人を支配するのを好むこと,自分の取り分を超えて独り占めしようとする欲望(ギリシャ人の言うプレオネクシア),他人を貶めて面白がる傲慢さ,自分と自分の関心事を他の何よりも重要と考えて疑問の残るあらゆる問題について自分に都合のよい結論をだす自己中心性――これらは道徳的な意味で,悪徳であり悪質で醜い性質そのものであって・・・。」(注5)
 日本経済新聞2022年3月9日朝刊(13版)2面に,「ロシア軍,中東で兵確保 イラク民兵「週給400ドル」 市街戦に備え・・・シリアやイラクの民兵は市街戦の経験があり,ロシア軍の犠牲を最小限に留める狙いとみられる」という記事が載った。空爆とともに,市街戦でウクライナ市民に対して容赦のない殺戮が行なわれるであろう。私はこの記事を読んで震撼する思いがした。ロシア兵であれば,同じ民族的特徴と,ウクライナはロシアの兄弟であるとする教育を受けていることから,ウクライナの市民に対する容赦のない殺戮が,ある程度は抑制されるのではないかと期待するのであるが,外国の傭兵であれば,そのような殺戮抑制の情感は起こらない。「軍隊はどの社会でも,その本性からして,同国人と他国人との違いが最も切実で強烈なものとなる立場にある。軍人以外の国民にとっては,外国人は馴染みのない人々でしかないが,軍人にとっては,招集の通知から一週間後には生死をかけて戦う相手になるかもしれない。軍人にとっては味方と敵の違いであって,人間という同胞と他の動物との違い,とすら言えそうである。なぜなら,敵に関して唯一の法は力の法であり,それを和らげるのは,動物に対する場合と同じく,人間としての素朴な情感だけだからである。同一政府の被治者のうち半数ないし4分の3は外国人だと感じている軍人たちであれば敵と宣言された相手の場合と同様に,それらの人々をためらいなく殺戮するし,その理由を知りたいとも思わないものである。さまざまな民族集団の混成軍は,軍旗への忠誠以外の愛国心を持たない。こうした軍隊は,近現代の全史をつうじて自由の処刑人だった。結束をもたらす唯一の紐帯は,自分たちの上官と自分たちが仕える政府だけであり,公的職責について思い浮かぶ考えは,思い浮かべばだが,命令への服従だけである。」(注6)

4.ウクライナの人々の抵抗――


 戦力的に圧倒的劣勢にあり,おそらくプーチン大統領も数日のうちに降伏するであろうと想定していたウクライナの人々は,2週間経過した時点(3月12日現在) でも犠牲を省みず,頑強に抵抗している。ウクライナの人々の行為に関して相応しいと私が思う(賛美する)ミルの記述箇所を紹介しよう。
 「自分自身の幸福や幸福の可能性をすべて断念できるのは,高貴なことである。しかし,結局のところ,この自己犠牲は何らかの目的のためのものであって,それ自体が目的ではない。自分の人生の個人的楽しみを放棄することが,世の中の幸福を増加させる点で有意義な貢献となるときに,そういう放棄ができる人は,まさに名誉にふさわしい人である。・・・
 他の人々の幸福のために最善を尽くそうとすると,自分自身の幸福を全面的に犠牲にするしかなくなってしまうのは,ただただ,世の中の仕組みがきわめて不完全であるからである。とはいえ,世の中がそういう不完全な状態である限りでは,このような犠牲を払う心構えがあることは,人間に見出すことのできる最高の徳である。・・・さらに,世の中のこういう状態では,逆説的な言い方になるかもしれないが,幸福を求めない覚悟で行為できることが,達成可能な幸福を実現する最善の見通しを与えてくれる,と言い足しておこう。なぜなら,このような覚悟だけが,最悪の運命や偶然でも自分を屈服させる力はないと実感させ,それによって,人は人生の偶発事に対して超然としていられるからである。いったんそのように実感すれば,人生の災厄を過度に心配することから解放される。」(注7)
 ウクライナの人々は,彼らが投票で選んだ大統領をリーダーとする代議制の民主主義国家の維持こそ,国民の幸福,未来を託する子供たちの幸福と考えて,自身の死を覚悟して戦っている。ミルによれば,「政治機構に必要なのは人々の服従だけでなく人々の活発な参加だから,政治機構は人々の能力や資質の現状に適合していなければならない。これは3つの条件を含意している。[第1に]特定の統治形態の適用対象となる国民は,それを進んで受け入れていなければならない。あるいは少なくとも,その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまで嫌がってはいないことが必要である。[第2に]国民は,その統治形態の存続に必要な物事を進んで行なわなければならないし,かつ,行なえなければならない。そして,[第3に]国民は,その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行なわなければならないし,行えなければならない。」(注8)という。ウクライナの人々は,これら3つの条件を満たすような行為をしているのである。
 しかも,ミルの言う国民的一体性が醸成されているに違いない。すなわち,「人類の一定部分が他の部分との間には存在しないような共感によって一つにまとまっている場合,その集団は一つの国民を構成していると言ってよい。この共感とは,部外者との協力以上に積極的に相互協力し,同一の政府の下にあることを願い,自分たち自身あるいはその一定部分だけで行なう統治であってほしいという気持ちを生じさせる共感のことである。この国民的一体感は,さまざまな原因で生じる。種族や祖先が同一ということの結果の場合もある。言語や宗教の共通性は一体感に大きく役立つ。地理的境界も一因となる。しかし,すべての中で最強の原因は,同じ政治的経験を共有していることである。一国民としての歴史を持ち,その結果,記憶が共通になり,過去の同じできごとに対する誇りや屈辱感,喜びや悔恨が集団として共有されるのである。」(注9)

 5.民主主義国家のウクライナへの支援とロシアへの制裁の動機


 北大西洋条約機構(NATO)諸国を中心に,日本や韓国などの民主主義国家と思われる国はこぞって,プーチン政権のロシアの侵攻を受けているウクライナへの支援とロシアへの制裁を始めた。制裁に関するミルの考察を紹介しよう。「正義の感情には二つの本質的要素がある。一つは,危害をもたらした人物を処罰したいという願望である。もう一つは,危害を被った誰か特定の一人以上の個人がいると知っていること,あるいは,いると信じていることである。
 そこでまず,ある個人に危害を加えた人物に対する処罰の願望であるが,これは,2つの感情から自然発生的に出てくるように見える。いずれも最も自然な感情であり,本能か本能に似ているものである。つまり,自己防衛の衝動と,共感の感情である。
 われわれ自身に向けて,あるいはわれわれが共感を寄せている人々に向けて加えられた危害や危害を加える企てがあったことに対して,憤慨したり,嫌悪感を覚えたり,報復したりするのは,自然なことである。
 ・・・これに関しては,人間が動物と異なっているのは,2つの点においてだけである。第1に,人間が共感の対象にできるのは,自分の子孫にとどまらない。・・・すべての人間に対しても,さらには,感覚を持ったすべての生き物に対してすら共感を持つことができる。第2に,いっそう発達した知性を持っていることである。そのことが,自分自身に関する感情であれ,共感的感情であれ,感情全体にいっそうの広がりを与えている。共感の格段の広さという点はさておくとしても,人間はすぐれた知性のおかげで,自分自身と自分が一員となっている人間社会とのあいだにある利害の共通性を理解できる。そのため,社会全般の安全を脅かす行為であれば,どんなものでも自分自身にとっての脅威となり,自分の自己防衛本能[それが本能であるとして]を呼び起こす。高いレベルにある知性が,人間全般に対する共感能力とこのように結びつくと,自分の属する一族や祖国や人類全般といった集団の観念に愛着を持てるようになる。すると,この集団に対して危害を与える行為であれば,どんなものでも本人の共感の本能を目覚めさせ,その行為に対する抵抗へと駆り立てることになるのである。
 このように,正義の感情は,処罰の願望を構成する要素の1つとなっていることからすれば,私の考えでは,報復や復讐といった自然的な感情である。この感情は,危害が社会全般を経由してわれわれに[間接的に]およぶ場合であれ,社会全般に共通する危害としてわれわれ[のそれぞれに直接]におよぶ場合であれ,そうした危害に知性と共感が呼応することで生じる。この感情は,それ自体としては,道徳的なものを何も含んでいない。道徳的なのは,この感情が,社会への共感だけにひたすら従属し,それに仕えその指示に従っているところである。というのも,報復や復讐という自然的感情は,われわれにとって不快なことを誰かがするときには,それが何であれ見境なしに,われわれを憤慨させてしまうからである。この自然的感情は,社会的な感情によって道徳的なものに変えられた場合に限って,社会全般の善に沿った方向で作用する。正義心のある人は,自分自身に危害がおよんでいなくても,社会に加えられた危害には憤慨する。しかし,抑止することが社会とその人との共通の利益となっている危害でなければ,自分に対する危害がどれほど苦痛を与えるものであっても,憤慨したりはしないのである。」(注10)
 さらに,ミルは(形式的)功利主義に反対するカントの「定言命法」においても,この規準に潜む(ミルの主張する)功利主義の思想との親和性を汲み取って,次のように述べる。「カントは[すでに示したように]道徳の根本原理として,「汝の行為の準則がすべての理性的な存在にとって受け容れられるような仕方で,行為せよ」と説いている。こういうとき,カントは,人類の利益を総計したもの,あるいは少なくとも,分け隔てなく一般的見地から考えた人類の利益が,行為の道徳性を自覚的に判断する際に行為者の念頭に置かれるべきであることを,実質的に認めているのである。・・・カントの原理になにがしかの意味を持たせるためには,次のようにその意味をとらえる必要がある。つまり,すべての理性的存在が採用するとそうした存在の集団的利益にとって有益になるような規範によって,われわれは自らのふるまいを律するべきだ,ということである。」(注11)共感・憤慨・制裁の機会を念頭におくと,カントの「定言命法」ですら,ミルの追加的解釈によって行為の判断規準として適用できそうである。  プーチン政権のロシアのウクライナ侵攻に対して,世界の大多数の国は非難している。非難に留まらず第三国が制裁に向かうのはどのような場合なのか。ミルによれば,「他人に危害を加える行為には,まったく別の対処が必要である。他人の権利を侵害すること,自分自身の権利によって正当化できない損失や損傷を他人に与えること,他人とのやりとりで欺瞞や虚言を用いること,他人に対する有利な立場を不公正な形で,あるいは卑劣なやり方で利用すること,さらに,利己心のために他人を危害から守ってやろうとしないこと-これらは道徳的非難に相当するし,重大な場合には,道徳的な報復や処罰を受けても当然である。」(注12)
  そして,『旧約聖書』に代表される正義の感情である「報復律」が作用する。ミルは,「処罰の正当性が認められた場合でも,当の犯罪行為に相応する量刑についての議論があり,そうした議論の中で,正義については,・・・lex talionis[報復律・ラテン語],つまり,「目には目を,歯には歯を」という規則ほど,正義の原初的で自然発生的な感情を強烈に示しているものはない。」(注13)というのである。

 6.「正義」とは何か

 それでは,ここで,ミルの考えている「正義」と「不正」について確認してみよう。  「第1のケースである。個人の自由や所有物,その他,法律で個人に帰属するとされているものを奪うことは,不正だと考えるのがふつうである。・・・不正な法律はありうるものであって,したがってまた,法律は正義の究極の判断基準ではなく,利益を誰か一人に与えられたり害悪を別の誰か一人に押しつけたりするために正義の見地から非難されることもある。・・・以上のことから,不正の第2のケースは,ある人に道徳的権利があるものを,奪ったり与えなかったりすることだと言ってよい。
 第3のケースとしては,・・・各人が(善いものにせよ,悪いものにせよ)自分に相応なものを手にいれることは正しく,自分に不相応な善いものを持ったり悪いものを押しつけられたりすることは不正だ,という見方である。・・・相応という概念が含まれているので,何をもって相応と言えるのかという問題が生じる。一般的な言い方では,ある人が正しいことをすればその人は善に相応し,不正なことをすれば悪に相応するということになる。もう少し詳しく言えば,善行を施している相手あるいは施したことのある相手からは,善い扱いを受けるのが相応であり,害悪を加えている相手あるいは加えたことのある相手からは,悪い扱いを受けるのが相応だ,ということである。善をもって悪に報いるべし,という格言[新約聖書・ローマの使徒への手紙,12・17,テサロニケの使徒への手紙1,5・15]が正義の実現例だとみなされたことは,いまだかつてない。それはむしろ,別の考え方[キリストの愛の考え方]に従って,正義の主張を退けた例とみなされてきたのである。
第4のケースとして,他人との信頼関係を壊すことは明らかに不正だ,ということがある。つまり,明示的に,あるいは暗黙のうちに交わした約束を破ることや,自分の行動が相手の心の中に生じさせた期待を挫くこと,少なくとも故意に自分から進んで生じさせていた期待を挫くことである。すでに論じた他の正義の義務と同じように,この義務も絶対的な義務ではなく,他のものが優先される場合がありえると考えられている。つまり,逆のことを行なう[あえて約束を破り期待に背く]いっそう強い義務がある場合や,相手側の行為が,その相手に対するこちらの義務を解除するようなものだったり,相手が期待していた利益を取り消してもよいような行為だったりする場合である。
第5のケースとしては,・・・偏っていることは正義と両立しない,ということである。つまり,ひいきや好意を交えることが適切でない場合に,他の人を差し置いて,ある人に対してそのような態度を示す場合である。ただし,偏りがない[公平]ということは,それ自体が義務というのではなく,むしろ,何か別の義務のための手段とみなされているように思われる。なぜなら,ひいきや好意は必ずしもつねに非難すべきものではなくて,実際のところ,非難されることがあっても,それは通例というよりも例外だと認められてからである。」(注14)
 ミルは,正義の観念が「行為の規則」と「処罰されることへの願望」の2つの要素を前提にしているとしている。これは,前節の記述の繰り返しになりそうであるが,民主主義国家の多くがプーチン政権のロシアに対して制裁を課していることの合理的説明になる。すなわち,「正義の観念は2つのものを前提にしている。その2つとは,行為の規則,それに,規則に義務付けの力を与える感情である。行為の規則は,すべての人間に通用しなければならないし,すべての人間の善をめざすものでなければならない。もう1つ(感情)は,規則に違反する人々が処罰されることへの願望である。これに加えて,規則違反で被害を受けていると確定できる人がいるという考えも含まれている(この場合にうまく当てはまる言い方をすると)その人の権利が規則違反によって侵害されている,ということである。また,自分や自分が共感を寄せている人々に加えられる危害や損傷に対して反撃や報復を望む動物的な願望は,人間の場合,幅広くなっている共感の能力と賢明な自己利益という考え方によって,すべての人々にまでおよぶ。これが,私の見るところ,正義の感情である。こうした願望の中の人間的要素によって,正義の感情は道徳的なものになっている。動物的な要素からは,正義の感情に特有の印象の強さと訴えかける力が生じている。」(注15)

 7.有徳な為政者と市民の活躍する社会への願望

 最後に,ミルが想定していた有徳な為政者と市民の活躍する社会への願望を確認しておこう。ミルは,為政者として選ぶべき人についてプラトンの考えに同調している。「プラトンによれば,政治権力を委ねるために探し出すべき人物とは,個人としては政治権力の最も嫌っている人物であり,この最適人物に統治の労苦を引き受けるよう仕向ける動機として唯一あてにできるのは,悪い人間に統治されることへのおそれである。こう主張したときプラトンは,よい統治について,大いに正しい見方をしていたのである。」(注16)プラトンがそしてミルが,今回のプーチン大統領の所業を知ったならば,彼を何と評するであろうか。
これまで紹介してきたように,ウクライナの人々の自己犠牲による抵抗について,ミルは次のような感想をもつであろう。
「幸福の増進が,それ自体,あらゆる行為の目的であるべきとか,行為のあらゆる規則の目的であるべきだ,と主張するつもりは私にはない。それはあらゆる目的を正当化するものであり,あらゆる目的を統御するものではある。しかし,それ自体が唯一の目的というわけではない。個別の事例において幸福を犠牲にし,快楽よりも苦痛をいっそうもたらすような有徳な行為が数多くあるし,そうした有徳な行為の仕方というものもある(ただし,こういう犠牲の事例は,しばしば考えられるほど頻繁にあるわけではない)。
しかし,本当に有徳な行為なのだという主張を正当化する理由は,場合によっては幸福にこだわらないような感情が人々の中で陶冶されれば,世の中全体としては,いっそう多くの幸福が存在することになるから,ということに他ならない。本当にその通りだと,私は心底から認めているのである。意図と行為の理想的な高貴さを陶冶することは,個々の人間にとって目的であるべきであって,自分の幸福や他人(その理想に含まれている人々は別として)の幸福は,この目的と衝突する場合には,いつでもこの目的に道を譲るべきである。しかし,性格のそうした高貴さとはいったい何なのかという問題自体の決着は,幸福を基準としておこなわれるべきだと私は考えるのである。性格それ自体が個人にとって最高の目的であるべきなのは,性格のこうした理想的な高貴さが,あるいはどんな程度にせよそれに近いものが,他のあらゆるものよりも,人間生活を幸福にするからに他ならない。この場合の幸福とは,快楽であるとか,苦痛を免れているといった,どちらかと言えば低レベルのものだけでなく,もっと高尚な意味での幸福でもある。つまり,今日ほぼ至るところで見られるような,人生を幼稚でたわいのないものにする幸福ではなくて,高度に発展した能力をそなえた人間たちが手に入れたいと望めるような幸福である。」(注17)
 私たちは,ウクライナの地での一刻も早い平和の実現とともに,世界の処々で絶えることなく続く紛争・戦争の地に,「地球市民」の観念を理解し平和が訪れることを強く願う。

(引用注)

(注1)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,34頁。
(注2)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,39-40頁。
(注3)J.S.ミル著-関口正司訳,『代議制統治論』岩波書店,2019年2月,114-115頁。
(注4)J.S.ミル著-関口正司訳,『自由論』岩波文庫 白116-6 2021年6月,291頁。
(注5)J.S.ミル著-関口正司訳,『自由論』岩波文庫 白116-6 2021年6月,174-176頁。
(注6)J.S.ミル著-関口正司訳,『代議制統治論』岩波書店,2019年2月,279頁。
(注7)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,44-46頁。
(注8)J.S.ミル著-関口正司訳,『代議制統治論』岩波書店,2019年2月,4頁。
(注9)J.S.ミル著-関口正司訳,『代議制統治論』岩波書店,2019年2月,276頁。
(注10)J.S.ミル著-関口正司訳『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,127-129頁。
(注11)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,130-131頁。
(注12)J.S.ミル著-関口正司訳,『自由論』岩波文庫 白116-6 2021年6月,174-175頁。
(注13)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,141頁。
(注14)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,109-114頁。
(注15)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,131-132頁。
(注16)J.S.ミル著-関口正司訳,『代議制統治論』岩波書店,2019年2月,203頁。
(注17)J.S.ミル著-関口正司訳,『功利主義』岩波文庫,岩波書店,2021年,204-205頁。

■ 第2章 国内外の政策動向 ■

 
 


■ 第3章 ESG投資 ■

 


■ 第4章 地法自治体 ■

 
<情報提供>東京都キャップ&トレード制度の実績と動向について(東京都)


■ 第5章 議事要旨 ■

 
以上






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