1996年6号

ジャパンヴィジョン第二部レポート「日本外交の改革」―3. 東アジアの安定的発展のために

3. 東アジアの安定的発展のために

 日米安保の強化

 中国の安定と不安定の条件を以上のように考えれば、日米安保の弱体化は、中国が強硬外交の方向に動く可能性を増やすことになる。これは是非とも防ぐべきである。日米安保は堅持むしろ強化すべきである。その可能性はどうだろうか。

 冷戦後の日米安保については、これまで多くの議論がされてきた。昨年2月のジョゼフ・ナイ国防次官補のレポートは、アメリカがアジアの経済に参入し続けるためには、東アジアに10万人の米軍を駐留させ続けるべきであり、日本への駐留は経済的にも機能の上でも極めて重要だという結論であった。ナイ・レポートは、専門家の間で高く評価されたが、弱点がないわけではない。

 これに対する最大の批判は、アメリカも日米安保から利益を得ているが、日本が得ている利益の方がずっと大きいという批判である。チャーマーズ・ジョンソンらは、この点について、豊かな日本をなぜアメリカが守ってやらなければならないのかと批判した。国と国も、人と人と同じく。絶対的な利益(ABSOLUTE GAIN)よりも相対的利得(relative gain)でものを考えやすいものである。日本とアメリカのどちらの利益が大きいかき簡単には言えないが、安保がなくなった場合、より困るのは日本の方だろう。

 その一方、日本では米兵によるレイプ事件が沖縄で起こり、日本が一方的に負担を負っているという認識が広がった。つまりアメリカでは日本の方が得をしているという批判があり、日本では日本の負担が大きいという批判がある。今年4月の橋本クリントン会議は、沖縄の基地の移転・縮小で合意がなされた。困難と予想された普天間の基地の返還が、条件付きとは言え、5ないし7年のうちに実現されることになったのは、両国首脳の決断の結果 である。しかし、基地の移転が順調に進むか、予断を許さない。

 中期的に考えると、日本における米軍の基地は減るだろう。ジョンソンも言うとおり、日本のような国にアメリカが広大な基地を持つことは不自然である。それにも関わらず、日米安保そのものの機能を縮小しないとすれば、日本側の役割を強化するほかない。クリントン大統領来日にあたって、ACSAの締結と日米有事に関する研究の進展が合意されたのはまことに自然なことであった。

 日米安保条約は、日本がアメリカに基地を提供しアメリカはこれを利用するという点で、一方的なものであり、またアメリカは日本を守るが、日本はアメリカを守らないとする点で、一方的なものである。つまり逆方向の一方的関係を組み合わせてある種のバランスをとったものである。

 これを双務的なものに変えようとする動きは古くからあった。たとえば1955年、ダレス国務長官と会談した重光葵外務大臣は、6年以内に米地上軍を日本から撤退させ、さらにそれから6年以内(つまり合計12年以内)にその他のすべての米軍を撤退させることを提案した。その代わりに重光は、おそらく西太平洋という地域を限って(この部分は、正式の提案の文書が未好評のため、推測であるが)、日米が相互に防衛協力義務を負うととした。これに対してダレスは、米軍がグアムで攻撃されたら日本は救援に駆けつけるのかと尋ね、重光がイエスと言うと、日本にそんな力はあるのかと、厳しくこの提案を拒絶した。

 たしかに、その当時で言えば、重光の提案はドン・キホーテ的と言われても仕方がないものであった。アメリカの力が相対的に後退し、日本の力が向上した現在、日米がもう少し対等の立場で協力することは当然である。

 がんらい安保は日本の防衛を含む極東の平和と安定を目的としたものであった。日本がこれほど大きな存在となった今、こうした同盟の目的に向けて、日本が役割を増やすのはごく自然のように思われる。

 この点で大きな障害となっているのが、政府の集団的自衛権についての考え方である。国連憲章は、すべての国家は個別 的自衛権と集団的自衛権を持つと明記しており、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約は、日本は個別 的自衛権と集団的自衛権を持つと明記している。政府も日本が集団的自衛権を持つことは認めているが、憲法上行使出来ないという解釈を取っている。しかし、行使できない権利は持っていないのと同じである。 そこには、個別 的自衛権はいいが、集団的自衛権は危険だという考え方があるが、むしろ集団的自衛権は、相互協力による平和の基礎であって、個別 的自衛権だけで国を守ろうとすることの方が、危険な発想である。巨大な破壊力の軍備が世界に存在する今日、一国だけで対応することは、むしろ軍事力の拡散をもたらすからである。

 

 東アジア地域安全保障機構の可能性

 以上のような日米安保の強化とならんで、中国を取り込む工夫も大いに必要である。日米安保は中国に対して敵対的なものではない。中国が自由で豊かな国になることは歓迎すべきである。そうした方向にアジアを安定させることが、日米安保強化の目的である。

 したがって、中国に対する建設的な働きかけも大いに強化しなければならない。その一つとして、地域集団安全保障機構の問題を取り上げよう。

 冷戦終焉後、日米安全保障条約に代えて、東アジアないし東北アジアに多国間地域安全保障機構を作るべきだという意見が、多くの識者によって唱えられている。同じようなことは、かつて起こったことがある。すなわち、1922年に、日英同盟に代えて四国条約が結ばれたことがある。しかし、それは地域安全保障の枠組みとしては脆弱なものであった。とくに最近の豊かで自由な国々の国民は軍事への関与に臆病である。自国の安全のためならともかく、それ以外のことで危険に直面 することは、出来るだけ回避しようとする。したがって、大きな紛争を解決したり、抑止したりするためには、多国間枠組みは役に立ちにくい。NATOなどは、理念を共有する国々が、アメリカを中心として結束したからこそ作動したのであって、日本、アメリカ、韓国。北朝鮮、中国、ロシアの間で、強い結びつきが出来るとは到底考えられない。

 また、東アジアでCSCEのようなものを作ることも、はなはだ難しい。CSCEの原点は、1975年ヘルシンキにおける、戦後の国境の尊重と、人権問題に関する一定の合意であった。アジアにおいては、中国は台湾については武力の行使をつねに留保している。また、人権問題についても合意はなされていない。

 しかしながら、ARFのような信頼醸成のための緩やかな結びつきとしての地域機構は、大いに歓迎すべきものである。日本に続いて、近年では韓国、中国、タイなども防衛白書を出版しはじめた。透明性の向上が、無用の摩擦を避け、平和を確実にする有効な方法であることは言うまでもない。ARFと並んで、実務家や知識人の交流の場であるCSCAPの発展が見られる歓迎すべきである。

 もう一つ注目すべきは、東南アジアの動きである。東南アジア諸国は、昨年、東南アジア非核兵器地帯への一歩を踏み出した。現在のところ、P5との関係で、若干問題が残っているが、非核中級国家の連体と自己主張として注目すべきものである。同様に注目すべきは、インドネシアとオーストラリアとの安全保障協定である。その内容は、安全保障における隔意なき協議であるが、かつての敵国同士が共通 の利益を確認しあったことは重要である。オーストラリアはかつてマレーシアとシンガポールとともに共同の演習を行っており、最近ではこれにインドネシアも加わっていたが、これがより高次の安全保障共同体へと発展したわけである。日本もこうした連体に、日米安保を堅持したまま参加することを工夫すべきではないだろうか。

 以上をまとめて言えば、日本はアメリカとの同盟条約、東アジア全域を含む緩やかな信頼醸成機構に加え、ASEANおよびオーストラリアとの非核中級国家同士の結びつきを強化することが出来るであろう。

 

 歴史の問題

 日本がアジア諸国との関係を強化していくときに、日本が過去の戦争と侵略の歴史にいかに対処しているかという問題を避けて通 ることは出来ない。

 日本が戦争責任を認めていないとか、謝罪していないなどというのは、事実に反する。日本は東京裁判の結果 を受け入れ、数カ国に賠償を支払い、通常期待される程度の戦後処理は、ほぼ慣習にしたがって終えている。(4)ただ、その後の日本が想像もつかない発展を遂げ、また国際規範も時代とともに変化するため、日本の責任の取り方が不十分だという議論が生まれている。(5)

 今年に入って、国連の人権委員会が、従軍慰安婦問題における日本の責任をきびしく指摘し、民間基金による救済という日本の政策を批判し、政府が責任を取るよう要求している。しかし、この報告書には、情報の収集と事実の確認においてはなはだ不正確だという点が指摘されている。(6)

 また、同報告書のような広範な責任を、たとえば第二次大戦以後に起こった朝鮮戦争やベトナム戦争などに適用できるかどうか、はなはだ疑問である。大多数の国は、こうした方の適用を拒否するだろう。一部の国にしか適用出来ないような法を作ることは、法の信頼性を低めるものであって、賛成できない。さらに、戦時の人権問題をあまり強調すると、紛争の解決はかえって困難になる。紛争に関する法が厳格すぎて、平和の到来を遅らせるようでは何もならない。

 さらに、これほど責任の範囲を拡大すると、かえって反発して日本の責任を否定するような議論を生み出すことがある。戦後50年を契機にそのような風潮が生まれていることは、遺憾ながら否定できない。

 要するに、まず必要なことは、過去の認識と、精算と、現在および未来の政策とを区別 することである。このうち何よりも必要なのは、正確な歴史認識である。誰にどのような責任があったかを追及することを含め、検証しなければならないことは、まだまだ多い。厚生省でも大蔵省でも、事実を隠す傾向は否めない。それが明確でないから、いつまでも謝り続けなければならない。

 第二に、精算の問題の中では、従軍慰安婦問題よりも重要で明白なことが他にもあるのではないだろうか。たとえば、朝鮮・台湾出身の旧日本帝国軍人に対する措置であろう。旧日本軍兵士のうち、日本国籍であるものには手厚い恩給を与えられ、日本国籍を離れた者は何も与えられないというのは、明らかに公平の原則に反する。

 第三に、過去の責任があるから、日本の国外で軍事活動は一切行わないというのは、おかしい。日本が満州事変を引き起こした時、列強はこれを傍観した。それが日本の侵略を勇気づけてしまった。こうした轍を踏まないためには、日本は当時の英米の側に立って、勇気ある外交を行わなければならない。過去と現在を文脈抜きに直結してはならない。

 そのためにも、東アジア地域安全保障機構などを通 じて、軍国主義や平和主義に関する新しい定義を広めておくことが必要である。憲法改正の動きや軍事力の増強を、それだけで軍国主義と一緒にされてはたまらない。誤解にはきちんと反論する必要がある。

 現在のところ、憲法改正論者の中にも、憲法九条一項の改正を主張している人はおそらくいない。9条の改正を説く人も、9条2項があまりに非現実的だという主張であるに過ぎない。国際関係で重要なのはレシプロシティであって、日本が他国と同様に、自衛のための軍事力を持ち、これを世界の安全のために使うことに、何ら後ろめたいところはない。

 今日の軍事大国は、核兵器、ICBM、戦略爆撃機、大型航空母艦のすべてまたは幾つかを持つ国をさすべきである。これらのいずれをも持たず、国境の外に軍隊(自衛隊)を派遣するのは、国連その他の国際的枠組みがきちんとしており、また戦闘を目的としない場合のみである。これを軍事大国と呼ぶのはおかしいのである。相互主義の原則にたって、平和と軍事との関係を整理する議論を広めなくてはならない。


  1. 青木報告による。
  2. 秦郁彦「歪められた私の論旨」、『文藝春秋』1996年5月号。

 

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